社会に適正があると思い込んで育ってきた。
今にして思うと、小学生のころから、周りに馴染めていなかった。呼ばれもしない誕生日会に行っては、嫌な顔をされてきた。周りが気を遣って出迎えてくれたことにも気付かず、与えられるがままに、その優しさを享受してきた。
はじめて社会性に疑問を持ったのは、高校の頃だった。中学の頃まで与えられるばかりであった私は、与えること、持ち寄ることを知らなかった。ただただ与えられることを待っている私には、当然さしたる友達もできず、ただ毎日を一人で過ごした。
中学の頃の友達とはまだ仲がいいつもりで居たが、高校生活を自虐しては苦笑いされる、そんな関係でしかなかった。その頃は、そんな会話が仲の良さの証であると、思い込んでいた。
大学では、変わろうと思った。社会性を獲得しようと、社会に馴染もうと思った。しかし、得られたものは社会性ではなかった。
餌を与えられて育ってきた珍獣は、狩りの方法を知らなかった。餌が欲しいと思う珍獣にできることは、できる限り自分の様を人の目にとめてもらうことだけだった。社会性の変わりに得られたものは、奇異性だった。
幸か不幸か、インターネット動物園にはありとあらゆる珍獣がいた。ある珍獣は、ある珍獣を見て、自分はまだまともだと、魅力的な人間であると、勘違いをした。
ただただ与えられるままに、みずから変化を与えることなく暮らしてきた私には、現状に不満があってもそれを受け入れることしかできない。
不満をため込み続け、周りには迷惑をかけ続け、いつか破滅する未来を待つことしかできないのだ。希望をつかむための努力も怠る私には、希望なんて与えられることはないのだろう。
全ては神の御心のままに。 変えようと思わなくていい。 受け入れるしかない。
思うにこういう社会性こそ格差が生まれる。家庭が社会から分断されているため、親が子供を躾ける能力がないと、子供が常識を身に付ける機会を大きく失う。結果として悲しい思い出...