「魔法少女まどかマギカ 叛逆の物語」を観た。
と途中までは泣いていて、
「ああ、そう願うこと自体が業だったのか」
と最後は涙は出なかった。
「あの子が世界を今のように作り変えたのならば、その願いを汲んで、次に来る者たちのために、僕たちが世界をさらに作り変えていかなければいけない」
と思ったのだ。
生まれて初めて、信仰者の気持ちが分かった気がした。
ただ僕にとってのまどかは造物主ではなくて、まどかの前にも世界は何度も願いによって書き換えられていただろうし、まどかの後にも世界は書き換えられていくのだ、と自然に思っていた。
ただ、それがほむらによってだとは思い至っていなかった。
ほむらは、書き換えられたまどかのいない世界を受け入れて生きるのだと迂闊にも思っていた。
それが、なんとも歯がゆい。所詮僕にとってまどかは「向こうの人」「いつかの人」だったのだと思い知らされた。
ほむらのことを普通に想像すれば、その人生はあまりにも過酷なのに。
ずっと、時間を繰り返してまで隣にいたかった「あの子」が「誰も知らないみんなのあの子」になった時に、それを笑って見送れるほど、「それでも自分だけでもあの子の願いを汲もう」と思えるほど人は強くない。
そしてこう思うはずだ。
でも、きっとそうなのだ。
世界が何度も書き換えられてきたとして、その全てがまどかのような博愛によって書き換えられた訳ではない。
時には「愛」という名の執着によって、時には明確な悪意によって世界は更新されてきたし、これからも更新されていく。
そしてそれは、意外なほどの近さで僕たちが背負っているはずだ。
あの願いは邪悪だったんだろうか。
そして、この結末は悲劇なんだろうか。