はてなキーワード: プロレタリアとは
このご時世に破格の条件の仕事を紹介されて無職の自分が飛びつかないはずが無かった。
『では一度工場見学にいらして下さい。』と言われ気軽に指定された場所に赴くと現場責任者数名が現れ、事実上の面接が行われた。
『現場見学』はその日一度も行われず、持参した履歴書は無造作に机の上に並べられた。
夜勤あり、『社内で定められた認定試験』に合格するまでは試用期間内の為、賃金は異なる旨の説明を受けた。
『では制服をお渡ししますので取りに来て下さい』と言われたので気軽に会社に取りに行くと『本日は入社の為の説明を受けて頂きます』との通達を受けた。
隣に居るのは一人の見知らぬ男性。
面接を一緒に受けていた人は皆辞退していたので派遣会社経由の人間は自分ひとりだ。
またしても無造作に広げられる書類。
年齢、家族構成、前職に至るまでが全て丸見えだった。
『試用期間』ということで自分の基本給は12万円だった。
「あまりに少ないので吃驚されたかもしれませんが募集にあった『19万』というのは皆勤手当て、残業手当、夜勤手当を含む金額です。試用期間中はこの金額ですが認定に受かりさえすれば給与はドンドン上がっていきますから。」
まずは三ヶ月ごとに契約が更新され、一年後には晴れて正社員になれるという話だった。
二ヶ月以内に社内独自の認定資格試験に合格出来なければ契約更新はないという。
ふと隣の男性の書類が目に飛び込んできた。
『15万8千円』
この差は何であろうか。
派遣会社からの紹介派遣とハローワーク経由での求人とでは待遇が違うのだろうか。
戸惑いながらも書類に印鑑を押す。
このご時世、雇ってもらえるだけでも有り難いと思わなければならない。
朝に行ってすぐ帰れるだろう、と思っていたのだが結局丸一日、社内の規則説明と現場の作業説明を受ける事となった。
隣の男性と少し話す。
「試験、難しそうですね。
「ええ、一緒に頑張りましょうね。」
目に見える分かりやすいヒエラルキーで支配された世界がそこにはあった。
生活が掛かっているので、皆真剣そのものだ。
入社して早々、隣の男性は居眠りを繰り返していた。
一週間後の午後、男性は姿を消した。
自分より高い賃金だったろうにな、と思うとなんとも言えない気分になった。
配属された先は今まで学習してきた事がまるで通用しない現場だった。
『座り仕事』、と聞いていたのに実際には立ち仕事である上、取り扱う製品の大きさも三倍以上の大きさだった。
これを朝八時から夜八時まで、夜勤の場合は夜八時から朝八時まで続けるのだという。
慣れない環境に体調を崩す。
しゃがみこんでいると注意を受けた。
「現場ではしゃがまない方がいいよ。他の人間も座れないし、『あいつばっかりしゃがんでズルイ!』とか言われかねないからね。」
どのような体力で皆、この激務をこなすというのだろう。
休憩は15分のものが二回あるが、更衣室、休憩室までの移動時間が片道5分の為、実質は5分しか休めない。
渡された給与明細を見つめる。
「総支給額12万と数十円」
皆勤手当て5千円なども含まれているらしかったが、各種保険の天引き後の金額だ。
交通費一万円も含まれた12万数十円なので、その一万円を差し引けば純粋な手取りは11万になる。
何度もトイレを往復した。
下痢止めの薬を服用しても一向に効かず、更に悪化するだけだった。
病院で処方された薬も効かなかった。
診察代と薬代で5千円以上掛かった。
新人教育を担当する先輩が親身になって相談にのってくれるのは唯一の救いだった。
これから先、どうやって生きていったらいいのかわからない。
プロレタリアという概念を歪曲させ、右に行った次は左へ向き、自らを聖女と名乗る人間に憤りを覚える。
只、綺麗な服で着飾ってちやほやされたいだけだろう。
旗を振って先頭を歩きたいだけなんだろう。
右も左もない、守るべき信念も持たない人なんだろう。
自己愛の塊としか思えない。
たしか以前の党要項に「実力を行使しても」みたいな文句があった気がする、と横やりを入れてみる。
まー今でも内部に”ちゃんとした下部組織として”過激派とかいるしねぇ、うちの大学のとか(ぁ
党の要項に「革命」とかあるしな。昔はコミンテルン日本支部だったそうな。
設立当時の綱領みつけた→http://homepage3.nifty.com/katote/22program.html
「 第3共産主義インターナショナルの支部である日本共産党は、非合法のプロレタリア政党であり…」
前文からはっちゃけてるwww
調べたら今でも「反社会的活動に従事する者や、また国家権力によるスパイ活動を防止するため、警察官・自衛隊員・公安調査官及び各機関の関係者の入党は認めない。」とか書いてあるそうな。
…今でもそうなのかも。
小林よしのりに感化されて軍拡マンセーしていた昔の俺みたいなオタクもいれば、
ヘルメットかぶってアキハバラ解放!とか叫んでたようなオタクだっている。
また、ガンオタでも作中で使われている技術や理論について語りたがる(エセ)理系オタクもいれば、
俺ニュータイプ論やシャア史を語りたがる(エセ)文系オタクだっている。
俺の身近なオタクにも、メンヘラさんやかまってちゃん、空気が著しく読めない奴(俺のことだけど)に、
陰謀論大好きさん、新興宗教ガチはまりさん……等、いろんなタイプがいて、
十把一絡げにオタクと言う分類わけをするのは難しいと思う。
だいたい元増田の言ってることなんて、どんな思想にも当てはまりそうなものだけどなぁ。
共産主義思想だってブルジョアジーを悪の枢軸に仕立て上げ(善悪二元論)、
搾取される労働者とやらに感情移入をして(感情移入と過度の思い入れ)、
歴史必然的にプロレタリア革命は起こると自身の暴力を正当化する(観念的空想、拗ね者意識、ルサンチマン)。
また、ヒトラーだってユダヤ人とその資本を絶対悪に仕立て上げ、
アーリア民族の優秀性を説いて、文化破壊者であるユダヤ人をぶっ潰せと喧伝したわけだ。
構図としては上の共産主義思想と大して変わらないんじゃないかなぁ?
これはべつにオタクじゃなくても当てはまるだろうという指摘があるとすればそれはその通りだが、ここで対象をオタクに限定したのは、筆者自身がいわゆるオタクであり、オタクのなかに見られる論理と心理について、ほかの集団のそれについてよりもよく見知っているという理由による。したがってここで例示したものは、あくまでそれがオタクにおいて比較的傾向的に強く見られるという筆者の観察に基づいている。
ってあるけど、俺が上に挙げたような点は、一般的に見られる普遍的な傾向であって(当時はみんな熱狂してたしね☆)、
”オタクにおいて”比較的傾向的に強くは見られるっていうのは違うんじゃないかと思う。
俺の私見では、現実の問題について語る素人が増えただけだと思うんだよね。
今まで政治問題なんてのは一部のインテリがどっか遠い場所で語るくらいだったのが、
インターネットの普及によって俺たち庶民にもそういうことを語る機会が生まれたわけだ。
で、そのインターネットにいち早く接触したのが、元来機械好きでリアル交友の少ない(笑)オタクたちだった。
オタクたちの遊び場であった匿名、あるいは非匿名の掲示板では時期的に偶然にも右翼タカ派の言説が多く、
彼らはそれに染まっただけだと思うんだ。
つまり”オタクだから”そういう考え方をしているのではなく、”たまたまオタクが”そういう考え方にいち早く染まったんじゃないかなーと。
記事で問題になっているのは著作権だが、それには触れない。
但し、プロレタリア革命はブルジョワ革命が完遂した後に起こる、或いは現在の自由主義が歴史の終焉であると言った話題は、手に余る。
同じ20世紀で、しかも大衆芸能について、一定レベル以上の成熟と大衆性を獲得した(だから、純文学や前衛藝術を除く)ジャンルでは似たような進化を辿るのではないか、という話。
>>最後に取り上げる例は、ジョージ・スティーブンスの古典的西部劇『シェーン』である。周知のごとく、西部劇というジャンルは四〇年代の終わりに最初の深刻な危機を迎えた。純粋で単純な西部劇は、いかにも作り物で単純な繰り返しだ、という印象を与えるようになった。西部劇の公式は使い尽くされたようにみえた。作家たちは、他のジャンルの要素を西部劇に盛り込むことによって、この危機に対処した。かくして出来上がったのが、フィルム・ノワール的西部劇(ラオール・ウォルシュ『追跡』。この映画は、フィルム・ノワールの暗い世界を西部劇に移植するというほとんど不可能な仕事をなしとげた)、ミュージカル・コメディ的西部劇(『略奪された七人の花嫁』)、心理的西部劇(グレゴリー・ペックの『ガン・ファイター』)、歴史叙事的西部劇(『シマロン』のリメイク)などである。一九五〇年代に、アンドレ・バザンはこの新しい「反省的」ジャンルをメタ西部劇と命名した。
この「メタ西部劇」は『西部劇』自身のパラドックスであり、その「メタ」の部分は/西部劇そのもの/である。いいかえると、この映画は、西部劇の世界にたいする一種のノスタルジーにみちた距離を含んだ西部劇である。『シェーン』が生み出す効果を説明するには、ふたたび視界の機能に言及しなければならない。つまり、常識的なレベルに留まっているかぎり、すなわち視線という次元を導入しないかぎり、単純で理解できる問いが生じる──もしこの西部劇の「メタ」の次元が西部劇だとしたら、二つのレベルの間の距離はどう説明されるのか。どうしてメタ西部劇は西部劇そのものとぴったり重ならないのか。どうして純粋で単純な西部劇はできないのか。答えはこうだ──構造的必然性によって、『シェーン』はメタ西部劇のコンテクストに属している。<<
(スラヴォイ・ジジェク著 鈴木晶訳 斜めから見る。青土社 P121
猫も杓子もジジュクを使いまわしている昨近、またか!と思われる方も多いだろう。またか、である。
アンドレ・バザンの≪超西部劇≫(sur-western)は、時間=歴史的な対象、一九四〇年前後の古典主義に対する一九四四年以後の「進化した」西部劇を指し示す。対して、ジジュク≪メタ西部劇≫は、空間=図式的な観念である。それは「メタ」の次元とそれ以外の次元からなる「二段の棚」であり、話を進める上で好都合だったので、持ってきた。
日本の場合、過去の例で思い当たるのは、時代劇だが、最近では、何といっても、ロボット・アニメかな、と。(時代劇については、ここでは触れない)
名前はいちいち挙げないが、歴史叙事的ロボット・アニメ(西部劇では実際の過去の出来事だが、ロボットがポピュラーな時代は未だ来ないので、未来、或いは仮想世界が舞台になる戦記物)、コメディ的ロボット・アニメ、(破綻も含む)教養小説的ロボット・アニメ、ファンタジー的ロボット・アニメ、ラブストリー的ロボット・アニメ、その他、いろいろ。
では、”その「ロボット・アニメ」は『ロボット・アニメ』自身のパラドックスであり、その「メタ」の部分は/ロボット・アニメそのもの/であるような作品、ロボット・アニメの世界にたいする一種のノスタルジーにみちた距離を含んだロボット・アニメ”、西部劇で言えば「シェーン」に該当するロボット・アニメは存在するだろうか?
人が余っている、欲しい人材は足りない、質の悪い人材しか採れない、なんて話を聞くと当然『資本論』の産業予備軍説を連想する。恐慌のあとの景気回復期にインフレとあいまって労賃の実質ベースでの切り下げが発生する、という理論だ。
読んでないので詳しく知らないのだが、『資本論』がプロレタリアと化したかつての常勤組を買い叩く産業として想定しているのは接客業とか、19世紀的な装置産業でしょ?(つまり店舗や機械の操業にあわせて働けるならノースキルでもまあ使いようがある)
現代の産業予備軍の「受け皿」としてITてのはいろいろな面であまり適切でない、という気はしている。人材の再教育が困難だと仮定すれば、より労働集約的な産業が勃興するんじゃないか。