山上はあくまでも冷静なテロリストであり、今回彼はもっとも効果的に対象にダメージを与えるために、あくまでも対象の要人にのみ標的を絞っていたのでその被害は最小限に留まった。
それは山上が言論によっては変革できない社会も暴力によって変革が可能であるという見込みを持っていたからに他ならない。
しかし、言論はもちろんこのような周到に計画された暴力によっても社会を変革する見込みがないという絶望を山上のような人間が抱いてしまったとすればどうなるだろうか。
社会を変革するための暴力ではなく、もはや自身もろとも社会を破壊するための無差別な暴力に走ってしまう恐れがあるのではないか。
それがまさに、加藤智大みたいなタイプなんだよね。