「根拠なく他人を肯定することが、根拠のない自己肯定につながる」みたいな言説を見て、希死念慮が酷かったタイミングで無理やりやってみた。他人の肯定といっても、大したことではない。俺を虐めていたアイツも、俺の分の学費まで食い尽くした末にニートで寄生虫してる兄も、その兄に勝手に俺の金を渡した親も、なんであのゴミがのうのうと生きてんだ早く死ねとか思わずに、勝手に生きてろゴミめ、くらいに思っていくようにした。
それを始めて半年が経った結果、熾烈な希死念慮はだいぶ落ち着いて、うすぼんやりと誰か殺してくれねーかなーくらいになった。この誰か殺してくれねーかなーの根源もだいぶ見えてきて、人を信用するのが苦手だからこの世には味方が居ないように感じてる、ってことから来てるんだと思う。
他人の信用できる動機、「罰が嫌」>「損得勘定」>「やりたいからやる」=「敵意」>>>「好意」みたいな順番って思ってるの、多分まっとうに生きてる奴とは違うんだろうな。損得勘定で動いてる人、特に損の回避で動いてる人はある程度信用できる。
ちょっとずつ、「やりたいからやってる」っていうタイプの動機の人も信用してみようと思う。酷い目にあったら死ねば終わるんだし、俺が死んでも俺が死ぬだけだし、の気持ちで行こうと思う。