それで夕飯には少し多めにつくって、朝食との兼用にすることも多々。
そんな折、久々に実家へと帰省すると今度も父が夕飯を作っていて、シチュー。
けっこう多めにあり、また翌朝用の分量も。翌朝、休日だったため父の起床は遅く、わたしと母が先に朝食を。
食べたのは残りのシチュー。父の分をとある程度は残しておいた。
そして父が起きてくると残ったシチューを食べるわけだけど、食べるのは少量ごく僅か。すると鍋の方にも僅かにシチューが残ってしまって、それなら食べちゃいなよ、と若い時分なら思っていた。
けれど今にしてその行為を目の当たりにすると、むしろああ、なるほど、と妙に納得してしまった。
というのもそれは妙齢となって自制を効かす父に対する思いというよりもむしろ、「残り僅かなんだから平らげてしまえ」と考えていた自分の浅はかな思慮に思い当たったからだった。
以前の自分ならばそのように、その状況に合わせてものに向き合っており、言わば『ものを自分に合わせる』行動で居た。しかし父の行動とは『自分にものを合わせる』というものであり、そうした本質的な行動規範、それを何気ない日常の最中で見つけてしまってハッとした。
思えば自分は自分がほしくないものでもほしがっていたり、それが自分にとって必ずしも必要でない。そうわかっていながらも、休息よりも労働を優先してしまっていた。