ここ数日の騒ぎだったりする中で、昔と比べても互いの言葉の通じなさを感じる。
そんな中で大野左紀子さんの一連のツイートを見かけたが、もうどうしようもないのではないかとも思ったりする。
それは非モテの話が議論になっていたりした頃に比べ、抱えているやりきれなさや絶望が年齢が上がるとともにより現実になっているからではないかなぁと感じる。
あの頃、まだ通じたのは、取り返しがきく年齢だったというのもあるのではないか。
もちろん実際にはそんな事はあり得ないと頭では分かってはいても、心のどこかで何かを期待できるものがあったのが、現実解が目の前に来始めていて、もうどうしようもないという諦めを抱えてしまっているように見えるのだ。
特にTwitterなんかであの手の話題に目立っているのが、そういう前世代だからというのもあるのだろう。
ただ、それ以上にかなり深刻だと思うのは、そういう現実味を帯びた人生やら世の中に対する諦観が、若い世代にロールモデルとして継承されているように見えるからだったりする。
それは同じ非モテだったりオタクだったりする人たちだけでなく、対照的な存在の人たちの目にもそういうロールモデルとして見えてしまっていて、それが批判の対象だったり、なりたくないロールモデルのように見えているように感じているからだ。
大野さんがTwitterで呟いたようなことは、前世代の人たちにはどうしようもない現実の中でより伝わりづらくなっており、ロールモデルを継承している若い世代には、より深刻な形で伝わらなくなってしまっているのではないかなぁ。