必ず「家族が殺されても同じこといえるか」という者がいるのだが、家族が殺されたら同じことがいえるかどうかはわからない。だからこそ理性的な判断として反対、といっておきたいのだが、その理路は理解されないだろうか。
自分も応報感情の故に殺人を肯定することはあるだろうと思う。けれどそれは平時の理性では肯定できない感情なのだとも思うし、殺人を犯した犯罪者の主観的感情と何が違うわからない。そんなものを社会が追認する必然性はない、と思っている。
自分はそれで悔しい思いをするかもしれないが、仮に死刑廃止国で行われているような被害者関係者への最大限の内面的・外面的な救済措置が講じられるとしたら甘んじる他ないと考えている。それで「人間を吊るして法的な解決とする国の出身者である」ことを恥ずかしいと思う自分のような者が減るのであればその方がよい。
なるほどな。 まあお前がどう思おうがお前の勝手だし、 俺はそんなリクツなど知ったことか、死刑はガンガンやれと言い続ける。
んで、なんで君は死刑反対なの? 被害者遺族の感情に勝る何かがあると?
人を殺し得にならないかね。