かくいう私もその一人だ。
どんなときに人を賢いと感じるかと咄嗟に問われたのならば「誰かの発言が愚かであることを示す反例を咄嗟に答えられる人間です」と言うだろう。
なぜなら自分は今までそういう人間こそが賢いのだと世の中に教えられてきたからだ。
正義のヒーローの存在意義は悪人を殴り倒すことによって証明される。
教師の賢さは授業中に指された生徒が問題を間違えることによって証明される。
政治家の正しさは対立する政治家の語る言葉が如何に中身がなく我田引水であるかを事細かに語ることによって証明される。
そういう世の中で生きてきた。
私の考える賢さとは「誰かに対してマウントを取るための力」なのだ。
何かが間違っている事は自分でも分かっている。
でもこの考えが染み付いてしまっているのだ。
思えば虚しい時代だ。
賢さが人を救うためでなく人を打ちのめすためにばかり使われすぎている。
きっとこの増田に対しても如何に私の考えが間違っているかを反論してみせそれによって自分の賢さを証明しようとする人間が群がってくることだろう。
悲しい時代だ。
人は賢さの使い方、その意味を誤ったまま誰もそれを止められないでいる。
大事なことを書いてるようで、なにが言いたいのかよくわからなかった。 誰か解説してくれ。
賢さは価値を(この社会では多くの場合利益を)生み出す能力だと思う。 だけど、もし仮に誰かがすさまじい利益を出したとする。そうするとその個人に、すさまじい数の有象無象の人...