2013-10-24

弱さを持ったとき人は、正しさに頼ってしま

人は強くなければいけない。弱音を吐いてはいけない。

から、弱さを持ったとき人は、正しさに頼ってしまう。

その正しさの使用方法は、いくつかのパターンがある。

① 自身の弱さの防衛的な攻撃性を、正論という強さに載せて放つ方法

② 正論という強さを利用して、自身の弱ささえも押し殺してしま方法

どちらの方法でも、表出される主張は、圧倒的に正しい。

だって、それは正論なのだから

だが、圧倒的な正しさが対象に向けられてベクトルを持つと

圧倒的に正しいが故に、対象の弱ささえも認めない攻撃的な性格を持つ。

対象もまた、弱さを処理するために、正しさに頼ることになり

上記の回路を得て、表出される主張は、圧倒的に正しくなる。

何かの揉め事や、どうしようもない出来事、グレーな事象に対して

人が意見を述べようとすると、この回路が良く動いてる気がする。

正しいものしか並ばない陳列棚は、とても窮屈に感じる。

それどころか、とても間違ってる気がしてならない。

でも、そこには正しいものしかいから黙っていることしか出来ない。

からといって、弱さが表出したところで、解法も生まれない。

表出した弱さは結局、行き場所を失う。

弱さではなく表出させた個人へ意識が集中し、気がつけばただの傷の舐めあいになる。

僕らは、意見を述べて何をしたいんだろう。

違うのかもしれない。何かをしたくて意見を述べてるんじゃない。

意見を述べたいから、述べてるんだ。「何」なんて本当はどうでもいいのに。

でも、その弱さを認められないから、「何」に対して、圧倒的な正しさを求めるんだ。

パンツがみたくてスカートの隙間を覗いたんじゃない。

スカートの隙間を覗きたいから、覗いたんだ。

そこに、おぼさんのパンツがあっても落ち込む必要なんて無い。

でも、その弱さを認められないから、僕は関係の無い正しさにすがる。


電車の中で、おばさんのパンツを見てしまったときに思った

  • 強いことと、弱音を吐くことは別問題だろ。 恐ろしい物に立ち向かえることと、勇気があるのとは別問題なように。   恐ろしい物に立ち向かうだけなら、単に恐怖心を感じない人間に...

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