人は強くなければいけない。弱音を吐いてはいけない。
① 自身の弱さの防衛的な攻撃性を、正論という強さに載せて放つ方法。
② 正論という強さを利用して、自身の弱ささえも押し殺してしまう方法。
どちらの方法でも、表出される主張は、圧倒的に正しい。
だが、圧倒的な正しさが対象に向けられてベクトルを持つと
圧倒的に正しいが故に、対象の弱ささえも認めない攻撃的な性格を持つ。
対象もまた、弱さを処理するために、正しさに頼ることになり
上記の回路を得て、表出される主張は、圧倒的に正しくなる。
何かの揉め事や、どうしようもない出来事、グレーな事象に対して
人が意見を述べようとすると、この回路が良く動いてる気がする。
それどころか、とても間違ってる気がしてならない。
でも、そこには正しいものしかないから黙っていることしか出来ない。
だからといって、弱さが表出したところで、解法も生まれない。
表出した弱さは結局、行き場所を失う。
弱さではなく表出させた個人へ意識が集中し、気がつけばただの傷の舐めあいになる。
僕らは、意見を述べて何をしたいんだろう。
違うのかもしれない。何かをしたくて意見を述べてるんじゃない。
意見を述べたいから、述べてるんだ。「何」なんて本当はどうでもいいのに。
でも、その弱さを認められないから、「何」に対して、圧倒的な正しさを求めるんだ。
強いことと、弱音を吐くことは別問題だろ。 恐ろしい物に立ち向かえることと、勇気があるのとは別問題なように。 恐ろしい物に立ち向かうだけなら、単に恐怖心を感じない人間に...