自分にとって受け入れがたい出来事なり人物なり対象が存在していることを、認めるわけにはいかないのかしら。
いじめに関するインターネットの私刑にしろ、視聴者の気分を害するテレビ局は停波しろっていう罵詈雑言にしろ、なんだかなあって思ってしまうんだよなあ。
もちろん、それらの対象に抗議の声を上げるなとは言わない。意見を言う自由は保証されるべきだし、言論封殺なんてもっての外ではある。
ただ、もうちょっと考えて講義すべきなんじゃないかなあ。ルールに沿った行動を取らなければ、今度は行動主が社会から危険視されると思うのだけどなあ。
手段や方法を選ばない私刑が効果を上げるようになってしまっては、トップダウンでは無きにしろ、極度の緊張を伴う監視社会になってしまうのに。
実際そうなってるキライはあるのだけどさ、そんなの住みにくいと思うんだよね。
とかく言いつつ、具体的な行動指針なんて持ち合わせてないのだけれど。
事態を変えられることとに酔ってしまってはいけないのではないかなあとかも思ったり。
権力の愚形かと似通った道筋を辿らないとも限らないところが、まあ気になるっちゃあ気になるわけで。