2011-02-03

「逃げてもいいんだ」の奇妙

欝病の存在が広く認知されて以来、「辛い時には逃げてもいいんだよ」という主張をしばしば目にする。

『逃げるな』は「腰抜け」とか「みんな頑張っているんだ」を含意するという点が問題にされていて、その反論として出てきたわけだ。

しかしこの『逃げてもいい』はこうした批難に反論する力を持っていない。

鬱病というのは病気で、仕方のないことなんだよ」というのが論拠として使われているが、これでは精神科で薬をもらうまで反論が許されない。

そしていちど鬱病になった人に日本社会は容赦がない。

 

この問題に必要なのは、こうした人格攻撃共同体規範に対して反論しうる十分な論拠なのではないか

 

例えば、眼前の課題を分析し、徹底的に対策を模索し、そうして「できない」ことが示されてしまうまではやってみること。

そうすれば、その撤退は合理的だという論拠になるのでないか

いでに、自分の至らない部分はどういう点で、それはこうして何ヶ月後までに改めておきます、と言えば、胸だって張れるではないか

要するに「すまんが、俺にはできん!誰か別の人に任せてくれ!でも次までにはできるように努力するよ!」を具体的に言えってことなだが

あるいは、計画を立てて労働時間に対して必要な休息であるということを示すことでもいい。

 

そう思うのだが共同体規範というのは合理性とは独立から、そうもいかないのかもしれないな。

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