子供のときにコミュニケーションで嫌なことがあってコミュニケーションが苦手になった人は、何歳になってもコミュニケーションが上手くはならないと思う。
「そんなことはない、俺は立ち直ったぞ」とか「考え過ぎなんじゃね」とかいう意見もあると思うけど、「一人で」立ち直った人というのを自分は知らないし、考え過ぎだと言われても何の解決にもならない。誰かに助けてもらえるほどのコミュニケーション力がないから一人な訳で、そういう人に向かって「誰かに助けてもらえ」と言っても意味がない。それに、考えないで行動しても結果は変わらなかった。
なにより、どんなことがあっても経験とコンプレックスを忘れられることはないと思う。集団の中で一人になってしまったり、大学行っても食事以外では口を開かなかったり。そういう経験が忘れられれば今よりは積極的にコミュニケーションがとれると思うのだけど、忘れることなんてできやしない。
だから「自分はこの人のことを友達と思いたいけどこの人は自分のことをどう考えているだろう。疎ましく思っているのかな。正直近づいてほしくないと思ってるんだろうな。でもこの人以外にまともに話せる人はいないし、、、」と無条件に考えてしまうし、それがまた気持ち悪い行動を生んで、嫌われたり疎ましく思われたりする。
でも、そう考えて行動しないと「空気の読めてないオタクがはしゃいでる」となる。
脱出方法は「いちいち考えない」や「この人から嫌われてもいいと考えて行動する」だと思うのだけど、考えないで行動してキモオタきんもー☆と言われて終わるリスクや、一時的か恒久的かはわからないけど「今は多分嫌われてない人から嫌われる」というのはあまりにも怖すぎる。だから必死になってすがるし、結果として嫌われる。でもそれ以外にどうしようもない。
自分だって休みの日は友達と一緒にどこかへ行ったり帰りに飲みに行ったりしてみたい。憧れは人一倍ある。それがまたハブられる原因だったりするのだけど。
うだうだ考えてこんなとこにこんな卑屈なことを書くような人間だから嫌われるということはわかっているつもりだし、こんなこと書いてないでオフ会の一つでも出てみた方がいいのかもしれない。でもオフ会に出て笑われたらどうする?自分のいないところで「アイツなに勘違いしてんのwww」と言われてるかもしれない、いや、言われてるに違いない、それなら出ない方がいい。
多分原因は子供の頃にあったコミュニケーション上の嫌な思い出なのだけど、それが自分の場合ここまで響いている訳で、ほんとコミュニケーションは積み重ねだと思う。基礎がしっかりしていないからよく倒れそうになるけど、倒れまい倒れまいと必死になって対症療法をする。自分が必死になればなるほどみんなは笑うし、だからって倒してしまっては一からやり直しだ。「一度基礎からやり直したら?」と言う人もいるけど基礎を一人で作ることは不可能。コミュニケーションの基礎を作るのに必要なのはコミュニケーションだから当然のこと。それでもなんとか「基礎のようなもの」を作って必死になって建てる。またそれが滑稽で滑稽で。自分でも滑稽だとわかっているけど、いつかは追いつけるんじゃないかという幻想が捨てきれない。だから必死になってすがりつく。そして「なに必死になってるのwww」の一言で崩れ落ちる。基礎がしっかりしている人だったら踏ん張れるし友達が支えてくれるかもしれない。でも自分が踏ん張ったら、崩れる。「なに必死になってるのwww」と言われないように必死になるから言われる。わかってはいる。
要は「必死になってこんなこと書いて昔のコンプレックスに縛られてる時点で自分はもうダメなんだよ」ということ。何度も言うようだけどわかってはいるんだ、わかっては。
まあ、そのへんはまあ、「テレビとは何か」っていう捉え方にもよるかなあ。
俺は基本、テレビの中の出来事とは距離を取ることにしてるんで。
ニュースだけを見てものを言うなかれ
おれもおもた。
プリンの話とDVDの話は全く別だよな。DVDの話はシャレにならん。プリンの話はカチ−ンとくるとしても基本的には痴話げんかレベル。DVDの話は犯罪。
もっと雇用が流動化して非正規が増えればそういう意識も必然的に変わってくるんじゃないかと思う。社会保険や解雇規制で正社員を優遇したまま派遣規制しようとするのはその流れに抵抗するためなんだろう。
「どうしようもない」というのは君だけの価値観だろうに。
あと、多分江戸時代からなんだと思うよ。身分制度っていうのは単なる上下じゃなくて、人生と職業が一体となっている制度だからね。
僕はゲームオタクではあったのですが、もともとゲームセンターにはあまり行かない人間でした。
もう今では三十路を越えた僕が小学生の頃のゲームセンターは、今とは違いチンピラの溜まり場であったことと、当時は小遣いも少なく持てる全てをコンシューマゲーム(ファミコン全盛期ですし)の方に注ぎ込んでいたことが要因でしょう。
僕は大学入試で失敗し、浪人してしまいました。それ自体はまぁいいんですが、さすがに浪人中、家でゲームをやり狂うのは周囲の目が厳し過ぎます。となると後はゲーセンしかない、というわけです。日本橋やゲーセンに行きやすい、という適当な理由で予備校は難波の大阪予備校という二流予備校に決めました。
んで、その頃からゲーセンに通い始める訳です。それまでは、ゲーセンの情報を殆ど入手してなかったので、グラディウス等の一部のシューティングにファイナルファイト→スト2の大フィーバー、そしてテトリスくらいしか知りませんでした。ですがこの時期は今思えばそれなりにアタリ年で、確か前半は
後半は、
などなど格ゲー周りだけみても山盛りです。KOFとかもありましたが、キャリアが浅いので興味はほとんど持てなかったです。STGは地味に19XX(結局、ラスボス倒せてないな…)を、パズルゲームはマジドロ2(このゲームは名作です。)と何故か戦玉(仲間内で流行ってた)を遊んでました。そもそも、今まで殆どゲーセンで遊んでないのでレゲーすら新作ゲームみたいなもんでして、もう無限に遊ぶゲームがあるような錯覚に陥りましたよ。まぁ、広く浅く遊んでしまったのが、ちょっともったいなかったかなぁとは思いますが。
それで、さらにセンター試験直前の12月31日(30日だったかも)に日本橋の今は亡きフェラーリというゲーセンが1プレイ10円とかバカなことを始めたからもう止まりません(どのゲームも難易度バカ高くして対戦も1本勝負にしたり残機 0設定にしたりと小細工はしてましたが)。毎日のように予備校に通いながらゲーセンに出勤という日々が続きました。こういったお祭りのような日々は大学以降も続く訳ですが…。
で、今はどうだと言いますと、ゲーム自体やらなくなったわけではなく、たまにゲーセンに行ってはCAVEの縦STGと三国志大戦を嗜む日々です。ゲーマースキル的には中の中と凡庸ですが、それでもゲームは、ゲーセンという空間は楽しいものです。とオチもなく終わります。
あ、話は違いますが、今のゲームオタクならXBOX360は持ってなきゃ嘘だろう?と思ってます。まずはXBOX360を購入しよう。話はそれからだ。
目の前ならわかるけど目の前じゃなくね?イスラエル。
新しいパソコンを買って、それにお店で使う為のツールやらなんやらをインストールして発送するって仕事してたんだけどさ
元増田です。
>心に余裕があるから他人の痛みに涙できるんだよな
言ってることは分かる。分かるけど、余裕の問題じゃないと思う。やっぱりそれは違う。
目の前で人が殺されているんだ。何の咎もない人が。理不尽に。無差別に。
それを目の当たりにしたら誰でも「やめろ!」と叫ぶ、でしょう。
目の前で人が死んでいくのに何も出来なかったら悔しいでしょう。何とかしてあげたいと思うでしょう。
それは余裕のあるなしじゃなくて、人としての本当に基本的な根本的な衝動じゃないのかな。
私だってもう26だし、数年前から学生じゃないし、今はかなりテンパッテルし、先行き不透明だし、親には国に帰って来いと正月を迎える度に泣かれるし(もういいや、私これ書いた増田です。http://anond.hatelabo.jp/20081127063438)、まだ大学を出るまでの費用の借金だってまだ残ってるし、そこまで人の事を気にしてる余裕はない。
でもこれはそんな次元の話じゃない。かわいそうとか、たいへんだなあとか、そういうんじゃない。
目の前で人が殺されそうになってる時に「止めなきゃ!」と思うのはもっともっと深いところから来るBasic human instinctだと思う。
それを埋めて少しでも長く一緒にいられるように合鍵を作って渡し半同棲を始めました。
そうすると今まで気づかなかった彼の落ち度にも気づいてしまって……。
まだ大学生だからか幼いところがあって冷蔵庫にあるものを勝手に食べちゃうんですね。
わたしのプリンとかチーズケーキとか後で食べようと取っておいて帰ってきたら食べられてて「ガーン」です。
ヒドいときは一緒に食べようと二人分買っておいたのを全部食べちゃうときもあります。
他にも本やDVDやCDがなくなってたりするんですね。聞いても「知らないよ」って言うんですが
駅前のブックオフに行くとわたしが持っていたのと同じタイトルのがあったりするんです。偶然でしょうか?なわけない!
わたしが教育しなければ??。
という価値観ではないか?
いつからこんな価値観に日本人が染まったのか知らないが(江戸時代ってこんな価値観あったっけ?)
ニートだのサビ残だの酷い労働環境だのそれでも誰もストもせず黙って耐えたり、あと男女問題、結婚、子育て問題ひいては少子化問題も結局つきつめるとここに行き着く気がする。