2009-01-15

三つ子のコミュニケーション百まで

 子供のときにコミュニケーションで嫌なことがあってコミュニケーションが苦手になった人は、何歳になってもコミュニケーションが上手くはならないと思う。

 「そんなことはない、俺は立ち直ったぞ」とか「考え過ぎなんじゃね」とかいう意見もあると思うけど、「一人で」立ち直った人というのを自分は知らないし、考え過ぎだと言われても何の解決にもならない。誰かに助けてもらえるほどのコミュニケーション力がないから一人な訳で、そういう人に向かって「誰かに助けてもらえ」と言っても意味がない。それに、考えないで行動しても結果は変わらなかった。

 なにより、どんなことがあっても経験コンプレックスを忘れられることはないと思う。集団の中で一人になってしまったり大学行っても食事以外では口を開かなかったり。そういう経験が忘れられれば今よりは積極的にコミュニケーションがとれると思うのだけど、忘れることなんてできやしない。

 だから「自分はこの人のことを友達と思いたいけどこの人は自分のことをどう考えているだろう。疎ましく思っているのかな。正直近づいてほしくないと思ってるんだろうな。でもこの人以外にまともに話せる人はいないし、、、」と無条件に考えてしまうし、それがまた気持ち悪い行動を生んで、嫌われたり疎ましく思われたりする。

 でも、そう考えて行動しないと「空気の読めてないオタクがはしゃいでる」となる。

 脱出方法は「いちいち考えない」や「この人から嫌われてもいいと考えて行動する」だと思うのだけど、考えないで行動してキモオタきんもー☆と言われて終わるリスクや、一時的か恒久的かはわからないけど「今は多分嫌われてない人から嫌われる」というのはあまりにも怖すぎる。だから必死になってすがるし、結果として嫌われる。でもそれ以外にどうしようもない。

 自分だって休みの日は友達と一緒にどこかへ行ったり帰りに飲みに行ったりしてみたい。憧れは人一倍ある。それがまたハブられる原因だったりするのだけど。

 うだうだ考えてこんなとこにこんな卑屈なことを書くような人間だから嫌われるということはわかっているつもりだし、こんなこと書いてないでオフ会の一つでも出てみた方がいいのかもしれない。でもオフ会に出て笑われたらどうする?自分のいないところで「アイツなに勘違いしてんのwww」と言われてるかもしれない、いや、言われてるに違いない、それなら出ない方がいい。

 多分原因は子供の頃にあったコミュニケーション上の嫌な思い出なのだけど、それが自分の場合ここまで響いている訳で、ほんとコミュニケーションは積み重ねだと思う。基礎がしっかりしていないからよく倒れそうになるけど、倒れまい倒れまいと必死になって対症療法をする。自分が必死になればなるほどみんなは笑うし、だからって倒してしまっては一からやり直しだ。「一度基礎からやり直したら?」と言う人もいるけど基礎を一人で作ることは不可能。コミュニケーションの基礎を作るのに必要なのはコミュニケーションだから当然のこと。それでもなんとか「基礎のようなもの」を作って必死になって建てる。またそれが滑稽で滑稽で。自分でも滑稽だとわかっているけど、いつかは追いつけるんじゃないかという幻想が捨てきれない。だから必死になってすがりつく。そして「なに必死になってるのwww」の一言で崩れ落ちる。基礎がしっかりしている人だったら踏ん張れるし友達が支えてくれるかもしれない。でも自分が踏ん張ったら、崩れる。「なに必死になってるのwww」と言われないように必死になるから言われる。わかってはいる。

 要は「必死になってこんなこと書いて昔のコンプレックスに縛られてる時点で自分はもうダメなんだよ」ということ。何度も言うようだけどわかってはいるんだ、わかっては。

  • わかる。ほんとうによくわかる。おれもそういう自己嫌悪でわらにもすがりたいときは、性格改造セミナーみたいなのへの参加さえ考えてしまうもん。

  •  そうやって、悩んだり苦しんだりすること自体が、人間関係のスキルになっているのでは?  私も、自分にはコミュニケーション能力がない、社会に溶け込めないって悩んでたけれど...

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