スマホゲーのウマ娘には、ゲーム構造上の欠陥があると思っていて、それは「アスリートとしてウマ娘を描く、スポ根もの」と「かわいい女の子が歌い踊り、人間関係を描くアイドルもの」の間で生じる矛盾。
スポ根が正しく熱く描かれるほど、じゃあアスリートに本業以外のダンスや歌唱はいらなくない?むしろこんな多様な性格のウマ娘がいるんだから、みんなが喜んで歌い踊るのは解釈違いだろう、という気持ちになってくる。アスリートに外見的な可愛さを求め、押し付けていると言えばその通りで、まぁルッキズムだ。
一方で、現実の競馬もよくよく考えると構造的に欠陥がある。馬が好き、馬が走るのが好き、馬に血筋と歴史あり、という楽しみの中で、速く走るためだけに改良されたサラブレッドという品種の歪さ、不自然さ、人間のエゴが見え隠れする。
この現実とゲームの構造的欠陥はどこかでリンクする。それはエンタメの中で、問題点を見て見ぬフリをするということ。ある種の快楽を優先することで、意識的に隠蔽する負の部分。
これらとどう付き合うべきなのか?意識をして罪の一端を精神的に背負うことで、自分への言い訳を用意し、致命的な矛盾を回避することができるのか。それとも単に忘れて楽しむことが正解か。
上手な現実との付き合い方を探る。