2019-05-04

俺の中で野崎まどの「know」がようやく消化された

私達が生きてる世界って「今生きている人間意見」と「当時生きていた頃の人間意見遺言とかも含む)」しかない

それは当たり前のことなんだけど、それだと「生きている」っていう立場バイアス絶対にかかる

こういうのを存在バイアスって言うのだろうか

生と死っていうのは1:1のように並び立っているようで、人間社会においては生の側に比重が大きく偏っている

からどうしても私達の世界存在する「言葉」「意見」「考え方」っていうのはどうしても「生きてこそ」「生きるべき」「どう生きるか」という側に偏る


死人は意見を言えないし、「死んだらいい」「死んでもいい」「死ぬべき」なんて考えの人間から先に消えていくんだから偏ることが必然

生存本能なんて言うけど、それは実際は「生きようとする意思が残った」のではなく「死のうとする、死んでもいいという意思が淘汰された」だけだ

キリンは首を伸ばそうと思って伸ばしたんじゃなくて、首が伸びたキリンが残っただけなのと同じように


「know」はその壁を部分的に乗り越えたことを表現したのだと思った

「戻ってこられたんならそれって死後の世界じゃなくて単なる臨死体験によるトリップなんじゃないの?」

「戻ってこられるような可逆性があるならそれは死じゃないんじゃないの?」

という当然のツッコミも認めつつ、彼女は死後の世界感覚)を知ることによってその逃れられぬバイアスを一部脱して

だとすると「know」の後の世界っていうのは「生と死が限りなく等価値に考えることのできる世界」なんじゃないかなって思った

あの世界では宮崎駿の「生きろ」とか富野監督の「頼まれなくたって生きてやる」なんてキャッチコピーは「古臭い価値観押し付け」って思われるんじゃないかなって

消化されたとか言いつつ文庫がどこ行ったのかわかんないけど

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