コギトの原理(私はある、私は存在する)の成立条件に注目しデカルトは明証性の規則(私がきわめて明晰に判明に認知するところのものはすべて真である)を導き出す
→明証性の規則に従って導き出された事柄も四つの根拠で疑うことが出来るのでは?そしてそのように疑わしい事柄しか導きだせないなら明証性の規則を確立しても意味がないのでは?
☆「感覚は時に誤る」という根拠で明証性の規則に従って導き出される事柄を疑えるのか?
感覚が誤りを犯すように見える時、実はその時誤りを犯しているのは感覚ではなく感覚内容に余計な判断が付け加わることで誤りが生じている
ところで、明証性の規則に従う限り、こうした余計な判断がつけ加わることなくその結果感覚が誤るように見えることもなくなる
従って、明証性の規則に従う限り、もはや感覚は時に誤るという根拠で物事を疑うということが出来ない
☆<夢と現実を区別するための明確なしるしがない>という根拠で明証性の規則に従って導出される事柄を疑えるのか?
→少察5,6 で次のように解答
生涯の他の部分との連続性を明晰判明に認知できるということを我々は夢と現実を区別する印とみなせるはず。 さらに例えば数学的真理は明晰、判明に認知される限り、夢の中であろうと現実のなかであろうとその真理性が揺らぐことはない。つまり極論すれば、明証性の規則に従う限り 夢と現実の区別するための明確なしるしがない という根拠に物事を疑うことはできない。
☆ 「最も簡単な数学的真理に関してさえ人は時に誤る」という根拠で明証性の規則に従って導出される事柄を疑えるのか?
→「哲学の原理」などでは次のように解答 数学的真理に関しては公理(それ自体は証明不可能だが、直観的に真だと確信できる原理に十分な注意を払って推論・証明を行う限り 本来 誤りは生じえない
ところが人間は、公理に対する注意が保ちきれず、その結果 数学的真理に関して誤りを犯す
ところで、明証性の規則に従う限り、こうした不注意はあり得ず、従って数学的真理に関して誤りを犯すこともなくなる
それゆえ 明証性の規則に従う限り、「最も簡単な数学的真理に関してさえ時に人は誤る」という根拠で物事を扱うことはできない
「神または邪悪な霊による欺きの可能性」という根拠で明証性の規則に従う限り、の規則に従って導出される事柄をうたがえるのか?