2013-03-30

こうすればもっと便利なのに、どうしてそのままなの? と聞いたら

 「頭、悪いから」といって、半笑いした人がいた。


 ウムム!と考える(by筋少


 (俺が軽くあしらわれた可能性を除くと仮定する)少なくても俺から言えることは。頭の良さとか悪さというのは、そもそも『良い悪い』自体が相対的な評価であるがゆえに、信頼してはいけない。

 例えばA・D・T・Gという中身と順序を覚えてくださいというときに、「どれくらいで覚える」「どこまで覚えていられるか」「覚えることでなにができるのか」「覚えると新しいものがみえるか」などという、期間と状態とそこからの発展しかなく、その評価でできることは『この人は~ができるけど、ここがわかっていないから~ができないんだな』とか『~を身につけるのに三日かかったから、これだったら一週間ぐらいだろう』などというテクニカルものだ。

 そこに頭の良さ悪さをまぜた瞬間に、他者からの評価(しかも想定は大抵曖昧だ)という不確定なものが入り、判断が鈍る。


 覚えるとは動作である。だから苦痛であろうと、一応できることにはなっている。

 だからランナーが黙々と、走るように行動し続けるべきだ。

 家族や教師や上司(そして鏡の中のお前! そうお前だ! 俺とソックリの! ほくろや寝癖の位置までおんなじなお前がが!)はそこに良い悪いの評価を混ぜてはいけない。

 もちろん出来たもの、結果に評価は出る。勝ち負けがでる試合のように。

 ただし、黙って走らせなければ人は速くは走れないのだ。選手は勝ち負けを考えているのではなく、「三塁のランナーを走らせるためには、自分バントをしたほうがいい。一塁の間に転がそう」という言語を反射的な行動まで落とし込まないといけない。(だから長嶋監督の教え方っていうのは、言語じゃないのね)しかもその判断を下すのは選手ではなく、監督などの「勝ち負けを考える人」によってなされる。つまり選手は反射的に体が動かせるように何度も繰り返し覚えることが重要なのです。

 大局を見るのが大切だといっておきながら、一手を見る行動をしている人を邪魔する親や教師をみると笑えてきますね。

 話がずれてますが単純に、良い悪いって気にすんな。走れってことです。評価の声は、十中八九自分の声ですからだって本当に楽しいことを夢中でやっているときは、『良い悪い』って声、聴こえてこないでしょ?

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