2009-07-28

二十代で研究者人生ダメにするための"論文"の読み方

 二十代の人が、研究者人生を棒に振ってしまうためのフラグの立て方は色々あるが、そのなかでも有名なものの一つに「悪性の論文調査」というやつがある。若いうちから、アカデミズムの海で実験結果を誤魔化すような処世術を身につけたり、捻れた教科書論文との付き合い方を覚えてしまったりした人は、まぁ、あとあと難しいだろう。

  

研究者人生ダメにするための“論文”いろいろ 

 では、研究者人生を棒に振るような“悪性の論文調査”とはどういうものか。色々なパターンをみかけるなかでも特に頻度の高いもの三つを、書き残しておこうと思う。

 

研究分野を色眼鏡で眺めるために論文を読む

 目の前の実験結果なり、自分が置かれているポストなりが気に入らなくて、それを色眼鏡でみる為に論文調査に耽溺するタイプ。このタイプの人は、実験装置のややこしさや理論の不完全性を承知しながら注意深くモデルを適用してみようという姿勢になりにくく、むしろシミュレーション理論という名のロードローラーを使って、研究対象をとにかく単純化・抽象化する姿勢へと傾きやすい。思想理論が含んでいて然るべき、実験結果に合致しない部分や不完全な部分を留保するよりも、自分が見たいビジョン自分研究範囲を染め上げることが優先されるものだから、教条主義的・原理主義的な研究者になりやすく、融通のききにくい“理屈だおれ”にもなりやすい。

 

 このタイプ人達にとっての“論文調査”は、研究分野のことを広く識るための“論文調査”というよりは、研究対象への見方をむしろ限定し狭めるための“論文調査”という体を為しやすい。彼らにとっての理論シミュレーションとは、視野を狭窄させるための色眼鏡でしかないし、まさにそのために“先行論文”が必要とされている。

 

 見たくない実験結果を自分の視界から締め出すために本を積み上げる人が、良い研究者になれるとは思えない。

 

・本の威を借りるキツネになるために論文を求める

 読んだ論文の数や著者の名前が、履歴書になると思っている人達の“論文調査”も、研究者人生を棒に振りやすい。本棚に並んでいる教科書参考書の立派さのためばかりに教科書参考書を買い求める人達も、同様である。

 

 本来、先行研究調査なんてものは「誰の論文を読んだのか」よりも「どんな影響を受け何を考えるようになったのか」のほうが遥かに重要な筈だし、ときには一枚のレターが、十冊のペーパーよりも強いインパクトファクターを与えるなんてこともザラにある筈だ。しかし、このタイプ人達にとっては、読破した論文の数を数え上げ、難解で有名な何某という先生論文を読みきったという事実証明のほうが重要らしい。ポスドク募集に提出するCVに載せるために論文を読むような、あるいは本の威を借りるキツネになるために強面の論文を敢えて選ぶような、そういう空疎論文の読み方に耽る人間というのは、いないようで結構いるものである。

 

 論文からの影響や論文の内容よりも、他人の論文の威を借りることに夢中になっている人が、良い研究者になれるとは思えない。

 

 

・優越感の袋小路に逃げ込む為にマイナーな分野を求める

 学会やコンペティションのような、他人同士が競り合う分野では劣等感が強烈過ぎて、それを補償するために、およそ誰も競争相手がいない研究領域を敢えて選んで、そのジャンルで悠々と優越感を味わうために知識を求める、という人も、可能性を勉強で囲い込んで腐らせてしまいやすい。

 

 例えば、研究生活のなかで劣等感が強い人が、その劣等感補償する為に勉強に手を伸ばすケース。実のところ、やり方は非常に簡単で、ラボの誰も興味を持ちそうにない分野の、ちょっと難しそうな参考書を見繕ってきて、ラボのなかで見せびらかすようにそれを読めば良い。ラボ流体力学を読んでいるやつがいなければ流体力学でもいいし、一般相対性理論教科書でも、マイナージャーナル論文でも構わない。とにかく、“ラボの頭の悪い連中”が手をつけそうに無い“俺だけが重要性を知っている”分野の論文を選びさえすれば、劣等感から身を守る大きな防壁として十分に役立ってくれる。

 

 しかし、こういう本の選び方ばかりしていれば、当然、“ラボの頭の悪い連中”とのコミュニケーションはますます困難になるばかりでなく、興味や関心の分野を著しく狭めてしまうことになりかねない。また、選んだ分野についての造詣を深めようにも、単に競争相手がいない場所を選んでいるばかりでは切磋琢磨など望むべくもないし、万が一、ポスドクとして行った大学などで競合相手に遭遇した場合、そこで再び劣等感を刺激されてもっとマイナーな分野へと逃避するしかないような、そういう逃げ癖が身についてしまうことも有り得る。

 

 マイナー研究を防壁にしながら劣等感から逃げ回るだけの人が、良い研究者になれるとは思えない。

 

まとめると

 

 このように、ひとつ“論文調査”と言っても、研究対象に対する視野を狭めたり、都合の良いモデル実験結果の埋め合わせをするために論文の山に埋もれるような、そういう惨めな論文教科書との付き合い方というのは十分に有り得る。世界を多様な視点で眺める術を与えてくれる筈の論文が*1、景色を歪め、視野を狭めるためのツールに堕するというのは、とても哀しいことだが、こういう事例は枚挙に暇が無いのが現状だ。

 

 矛盾した物言いに聞こえるかもしれないが、二十代の研究者劣等感補償する為に難しめの論文チャレンジしてみるとか、他の人が手を出してない研究分野を学んでみるというのは誰にだってあることだろうし、むしろある程度はキャリア相応に必要なプロセスでもある。だから、上に書いたような論文の選び方が全部ダメだというつもりは無い。けれども、上に書いたような論文の選び方ばかりを繰り返しているしているようでは、やっぱり良い研究者になれるとは思えないし、どんなに論文を読んだとしても、得るところが少ないだろう。

 

こちらより改変。

http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20090727/p1

●追記

ブクマ数見て驚いた。

こういうネタバレは無粋かもしれないけど、これ、半分は改変元の記事への皮肉で書いてます。あの理屈研究者に当てはめるとこんなヘンテコなことになるよ、というのを示すつもりで。でも、ブクマで賛同してたりする人が結構いて、ちょっと何だかなあという気分。(22:45)

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