はてなキーワード: 憲法学者とは
そんなに外国人参政権導入したければ、憲法改正してはっきりと文言として残せばいいのにって思うんですが、
賛成論者の方は断じて『憲法改正』を口にされませんが、なんで?
地方自治体レベルでの参政権なら憲法違反ではない、という立場が制度導入論の前提になっているからです。
それが本当に違憲ではないのかということの最終決定権は最高裁にあるわけですが(これを最高裁判所の違憲
立法審査権と言います。)、日本の制度では、法律を作る前に最高裁に「この法律は違憲でしょうか合憲で
しょうか」という照会をすることはできないことになっています。ですから、合憲性について争いがある法律
であっても、立法府の段階では誰にも(賛成論者でも反対論者でも)決着をつけることはできないわけです。
ただ、仮に最高裁が判断することになったときに最高裁がどのように判断するかは、ある程度であれば、見当を
つけることはできます。その参考になるのが最高裁の判例や憲法学者の学説です。判例は法律ではなく、あくま
でもある事件を解決するために述べられた裁判官の意見に過ぎないのですが、しかし最高裁判所は自らの判例を
簡単には変更しませんので(全く変更しないというわけではありません。最高裁が自ら宣言して変更することも
ありますし、判例変更するとは明言しないものの、判決の中身をみると実質的には判例変更されているというこ
ともあります。)、最高裁の判例は憲法解釈の上で大変重要な資料になっています。また最高裁判所の判決は、
判事や調査官が判例や学説について詳細な調査をしたうえでなされますので、学説の積み重ねもそれなりに影響
力を持っているものと推察できます。
そういうわけで、自治体での外国人への参政権付与を唱える人たちは、最高裁の判例で述べられていた意見や、
学説の大勢などを見た上で、これを合憲と判断し、したがって憲法改正は不要と考えているわけです。
なお、判決中に述べられたある意見が「傍論」か否かは、上記の判断にあたっては、決定的な要素にはなりません。
判決中の法解釈に関する裁判官の意見が「判決理由」なのか「傍論」なのかという区別は、判例が法律と同等の法的
効力を有しているとされる英米法系の法域では大事なのことなのですが、日本では上記のように判例は法律と同じ
力は持っておらず、「判例は変更されにくい」という経験則にもとづいて解釈の参考資料の一つとして参照されてい
るに過ぎないので、「判例中のある意見が傍論であれば無意味で、本論だけが意味をもつ」という区別の仕方は、将来の
最高裁の憲法判断を予想するに際しては誤った区別です。(傍論だからあんまり重視しなくて良い、という考え方なら
あり得ますが、それも常に言えるわけではありません。)
なんか根本的に誤解というか思い込みがあるような気がする。
よくわかんないんだけれど、1つ気になった点。
文章読んだ限りだと、この法改正ぎろんについて
「20年前に読んだ本」をもとに「10年前に書いた話」なんてものが
論拠として使われているようなんですけれど、こんなことがあっていいんですか?
この人だって、そんな昔の発言いまさら穿り返されても困ると思うんだ。
ましてそれについて勝手に神輿にのせられて、下手したら責任取らされる。
それってどうなのさ?今の学者達は何をやってるの?
法解釈学(法律学と一般的に言われてるものはこれだと思う)ってのは、多くの場合新しいものがポンポン出てくる世界じゃない。
それこそ参政権とか国民国家とか、もっと広く言えば人権の概念なんて、
数十年、数百年かけてちょっとずつ変わってきたようなもので、10年なんて文字通り一昔。
だいたい、「10年経ってるから当然古臭い」なんていうのは論として荒すぎる。
今と10年前で何がどう違って、その違いによって対象となっている主張のどの部分が何故陳腐化するのかが説明できなきゃ無意味。
あと、今の学者は何をやってるの?というなら今の学者の業績を調べることをお勧めする。
というか件の長尾教授だって「今の学者」だと思うんだが、、、。
ちなみに「外国人参政権 論文」でググっただけで、トップにいきなり論点をまとめたドキュメントが出てきたぞ。
ちゃんと読んでないし、政府の息がかかってるようなのでそれを鵜呑みにしていいかは分からないが、
少なくとも憲法学者はこれまで議論を続けてきたってのだけは分かる。
価値ある学説っていろんな学者が入れ替わり立ち代り議論するから新鮮だと思う。
でも、10年間他の人が寄り付かなかった学説って要するに
その価値がなかったわけでしょ?カビが生えてるわけでしょ?
その議論をする必要がなかっただけ、というかもしれないけれど、
これもなんか思い込みで書いてるように見える。
10年前に単発の論文がぱっと出て、それきり何の検討もなしに放置されてたみたいな認識でいるのかね。
上でも言ったが議論は継続されてる訳で。
今その必要が出てきたわけだから、あらためてみんなで議論しなきゃいけないんじゃないの?
これは同意。いままで多くの人が関心なんて持ってなかった話題なので、みんなが関心を持ったなら議論すべき。
ただし、これまでの議論の流れは踏まえておいた方が無駄な議論は減らせると思う。
他にも言いたいことはたくさんあるが長くなってきたし疲れたのでこれで。
純粋法学マジおすすめ。ケルゼン『法と国家の一般理論』は絶版中だけど古書店でたまに手に入るから見かけたら買い逃すなよ。
たとえばさ,民法1条2項にはこう書いてあるのさ。
権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない
個々の事例について「これは信義に従っているか?」「誠実と言えるか?」なんて立法者に聞いて回るわけにはいかないじゃない。もうボアソナード死んじゃってるしな。実務に使える基準を求める必要がある。しかも一度確立したら終わりってわけじゃなくて,基準を放っておくと時代遅れになる可能性がある。信義なんて言葉は道徳や慣習,社会情勢の変化とともに動いていくものだから,それにあわせて基準をメンテしてやらなきゃならない。解釈ってのは規範創造的営為なんだよ。そういう意味では国会が「唯一の立法機関」ってのは中学公民用のタテマエだからあまり真にとらないでほしい。
なんか法学者の中にも自分たちの仕事が客観性を有する科学だ/科学になりうるって勘違いしてる奴がいるけどさ(某女憲法学者とか)。ちゃうよ。諸価値を認識し調整してルールという形に落とし込む,学問の皮をかぶったイデオロギー的行為なのよ。だから派閥を作って争うのも当然だし,正答が神に用意されてる科学の側から見ればありえない世界に見える。
ThinkCに参加した人たちからは評価が高い白田氏の演説だけど、ギレン・ザビの演説級だと僕は思う。たくさんの人が知った方がいいと思うし、もっと評価されていいはずだ。一部で議事録もあがっているようだけど、現場の勢いはあんなものではなかったから僕の記録を公開することにした。それに今回のフォーラムは公開されないと聞いたから。
もしかしたら実際の発言とは多少異なっているかもしれない。そこのところは僕も危ぶんでいる。とはいえ、面白さとか迫力とかだったらある程度までちゃんと再現できてると思う。以下の記録を読んでくれて、白田氏の熱さが伝われば幸い。
...「制度改正ができるものならやってみろ」ということでしたが...
そんなこと10年前からやってきたんですよ!
博士論文で、著作権制度が産業保護奨励政策としての独占にすぎないことを明らかにした(1)。
博士論文の内容をくだいて一般向けにした、わかりやすい解説も書いた(2)。
あちらこちらの講演で語った。
雑誌記事で一般に訴えた。
オンライン記事でみなに訴えた(3)。
審議会に出て言いたいことを言ってきた。
ロージナ茶会という組織も作った──茶会はすでに解散してしまいましたが──。
パブリック・コメントも出した(4)。
私一人でできることは、ずっとやってきたんだ!
それでも、誰もついてきてくれないから...
いまだに、こんな議論を続けなければならないんじゃないですか。
法律論では、なんにも先に進まないことは、もうわかってますよ。
...この会場の誰が、私を援けてくれるんですか?
誰が、私と一緒に著作権制度の議論に本気で取り組んでくれるんですか?
最近は、茶会のメンバーですら、私の書いた記事にコメントくれなくなった(苦笑。
そこら辺(運営側)の人たちも、最近さりげなーく私の発言を無視するようになった。
それでも、一人でも、一歩でも先に進まなければいけないから、
こうしてここで喋っているんですよ!
会場から「白田の主張は偏ってるんじゃないか」というご指摘がありましたが...
そんなことは百も承知でやってんですよ!
日本の学界の主流である、ドイツやフランスの著作権理論がどんなものかは、よく知っています。
しかし私の博士論文では、イギリスの著作権制度がそれらに先行し、強い影響を与えたことを明らかにしている。私の研究では、産業保護策としての独占の付与が先んじ、その後、著作者の財産権だの、著作者の人格権だのといった主張がくっついてきたことを明らかにしている。
私はその研究に5年かけたんだ。貴重な若い時間を費やしたんだ。
だから、著作権制度が所有権や人格権を本質とするという主張については、賛成できない。さらに言えば、知的所有権のみならず所有権という概念それ自体があやふやであることもまた、岩波から出た論文集の中で指摘している(5)。
もちろん、こうした考えは学界では異端だろうし、支持者もいないだろうことは知っている。
しかし... 世間の大勢が、著作権は「天才を保護する権利だ」とか「創作者の心情を保護する権利だ」などと言ってるからといって、自分が5年かけて確認したことを、「著作権制度は、本質的に産業保護を目的とした独占にすぎない」という自らの主張を、曲げることは学者としてできない。世間の大勢を慮って自説を曲げることを曲学阿世という。首をくくられても自説を叫ぶのが学者なんじゃないですか?
いいですか... 社会のほとんどの人が「著作権は天才の権利だ」と信じて、それを強化拡大しようとする側にいるとき、シーソーは、圧倒的に権利強化の側に重く傾く。そのとき、たとえ100mの空高くはじき飛ばされようと、誰かがシーソーの反対側に立たなければ均衡など維持できないではないですか。
ローレンス・レッシグは、憲法学者でありながら、なぜ著作権制度について問題意識をもち、闘っているのか!
彼の本、『コモンズ』には、こういう一節があった。
──連邦議員が、少数の利益や既得権ではなく、一般的な福利を尊重すると考えることが頭がおかしいのなら、連邦最高裁が、形式的な法律の適用ではなく、われわれの自由や幸福について配慮すると考えることが頭がおかしいのなら、いますぐキチガイを増やさなければならない──
というものだ。したがって、私は百も承知で偏った議論を展開している。それは、それが全体としての均衡を維持するのに必要だと考えているからだ。
(1) 白田氏の唯一の学術論文である『コピーライトの史的展開』 知的財産研究叢書2, 信山社 のことらしい。
(2) ネットワークでは良く知られた『もう一つの著作権の話』青空文庫 のことのようだ。
(3) このあたり、氏のWebサイト『白田の情報法研究報告』でだいたい読める。
(4) 「知的財産推進計画2006」の見直しに関する意見募集にも提出している
(5) 知的所有について, 『[rakuten:book:11350650:title]』 第3巻 情報, pp. 85--105 のことらしい。
連邦最高裁が「自由や幸福について配慮すると考えることが頭がおかしい」という部分についてだけど、実際の記述は、『Free Culture』p. 313 にあった。引用すると以下のとおり。
でも、政府の役割が「バランスを追求する」ことであるべきだというのがバカげていると言うのであれば、わたしはバカの側に分類してほしい。というのも、そうなったらこれがかなり深刻な問題になってきたということだからだ。もし政府がバランスを追求しようとせず、政府が単に最強のロビイストたちの道具でしかないということが誰の目にも明らかになっていて、政府に別の基準を要求するのがバカげていて、政府がウソではなく真実を語るよう求めるという発想がおめでたいのであれば、世界最強の民主主義だったはずのアメリカは、いったいどうなっちゃったというのだ。
政府高官が真実をしゃべると期待するのは頭がおかしいのかもしれない。政府の政策が、強力な利益団体のお手盛り以上の何かだと信じるのは頭がおかしいのかもしれない。歴史を通じてずっとアメリカの伝統であったもの――自由な文化――を守ろうと論じるのは頭がおかしいのかもしれない。
それが頭がおかしいのなら、キチガイをもっと増やさなきゃいけない。それもすぐに。
http://anond.hatelabo.jp/20070321234659 を読んで
「差別」は合理的理由なく、異なった取り扱いをすること、
「区別」は合理的な理由があって異なった取り扱いをすること、
と、明確にではないが方向付けられ、
すると日本国憲法はこんな感じなんですかね。
ははは実情に即しているような気がしますね。