はてなキーワード: 廉価版とは
昔と、言っても二、三年前くらいは違ったんだよ。
それがたとえクソだと世間さまからいわれてようが
ファミ通で4443くらいであろーが、
ハマって、「大人になったら大好きなゲームをいっぱい買ってクラスのだ」
くらいに夢見るチャイルドだったわけですよ。
積みゲーする連中なんて、ゲームの発売日にすぐ中古屋に売る輩以上に
理解できない存在だったんです。だって、触れもせず放置なんですよ?
金払ってるのに。
でも、俺も今、7本くらいゲームを積んでる。内6本は中古や廉価版だけれど。
買う前は確かに欲しかったハズなんだ。
でも購入後に「これはホントに俺が望んだゲームなのか?」って疑問が沸いてくるんですね。なぜか。
やってもないくせに。
そんでもまぁ「金出して買った以上はやらんくちゃなぁ」って義務感?みたいなもんが生じて
それがなんというか、逆に益々俺を萎えさせちゃうというか・・・
いや、それだって一本2500円は決して安くは無い金額だろうに。
本もね。
「この作家ならハズレがないだろう」って思って買った作品、
大好きな作家の待ちわびた新作のはずなのに、なんだろうね。
読んだら読んだでなんかダラダラ仕方なく読むカンジで、
心のどこかで「早くおわらんかなぁ」とか考えちゃう。
昔は常に読後には充実感が体中に満ち満ちていたはずなのに。
今は50ページ前の展開すら思い出せない。
大好きな作家なんだよ。面白くないわけがないんだよ。
なのに、なのに、何で、俺は。
なんか、アイドルマスターのMADがニコニコ動画で大流行らしいのだけど、俺の中でのアイマスの知識といえば、「真はボク女」ということくらい。ニコニコ動画をみたこともない。
起動してディスクを入れると、カタログをダウンロードしろ言われたのでとりあえずダウンロードしつつ説明書を読む。説明書を読んだ限りではまあ要するにミニゲーム集だよなーという感じ。やっていくうちになんとなくわかるだろうということで、はじめてみる。
最初はシングルユニットしかダメということで、一人だけ選ぶ事に。ボク女属性はないので真はパス。どいつもこいつも決定打にかけるので、ストIIで(リュウのコピーキャラとしての)ケンを選ぶ俺としては左端は安泰ということで、左端の人を選んだ。
本編がはじまって社長登場後、左端の人も登場。お互いの名前の呼び方を決めろということで、名字or名前の選択肢がでてくる。そこではじめて気がついたんだが、左端の人の名前が昔つきあってた人と同じ名前だった。あいたー、と思いつつも名前呼び捨ての方を選択。左端の人の一人称が名前じゃなくて良かった。
その後、レッスンやら、営業やらをこなす。やっぱりミニゲーム集だよなー。と思いつつ、左端の人がドジっこ属性だということを認識。うーむ。なんだろうこのしてやられた感は。
はじめてのオーディションの後(これはかならず合格になるっぽい)、10週ほどすすめてみる。ゲーセンだと、この1週5分程度が1クレジットで、つまりもう最低でも1,000円分はもとをとったぜと思うと、ヲタから効率的にゲイツポイント、ひいてはリアルマネーを吸い上げているところの衣装やら何やらは確かに安い。たぶん買わないけど。
ということで、まだ面白さがみえてこない。
ブックマークでも人気のこちらを見て考えた。
80年代に隆盛を誇った8bitホビーパソコンの追憶の詩と映像である。若くてそんなの知らない向きにはこちら→Wikipedia 8ビットパソコン、ホビーパソコン
要するに貧相な計算能力ながらようやく「人間にも分かる」表示能力と発音能力を持った初期のパソコンの、ユーザーがその表現をプログラム側からながら自由に扱うことができるところに面白みのあった一時代についての懐古である。曲も素晴らしい。
もちろん私も8bitホビーパソコンのストライクゾーンユーザーだったわけで上記クリップの言わんとする感じは良く分かる。逆に世代が違うとそれだけでこのビデオ作品には何も感じないかもしれない。
しかしそんな懐かしズムについて語りたいわけではない。いや、むしろ猛然と語りたくてしかたないのか。ともあれ、この国産8bit時代に我々現30代はアーダコーダと雑誌を横に機械語まで弄ったりしたのだ。頭の柔らかい中学生ぐらいだから理系とか関係なく自然と言語を取り扱えた。いきなりバイナリでコードを組んでる姿は親からみたら異星人だったに違いない。それでもクラスに数人はいたはずだ。希少種というほどでもない。
そこで疑問に思うのがそんな我々30代が社会で中堅と相成った現在において、この日本のソフトウェア産業のレベルが低いのはどういうことなのだろうか。かように自主的にコンピュータの実習をしてきたにもかかわらずだ。
怪しい部分はいろいろある。
8bitパソコンにうつつを抜かしている間言われたのは「プログラマーでは食っていけない」という呪いだった。実際、私も特性があったとも思えないが選択肢から最初から除外していた。この辺の妥当性は現在プログラマーの人のコメントを待ちたい。外見的にはWebプログラマーとして人材が流れ込む現在とは対照的だとは思う。
また、90年代の停滞だ。Macintoshの廉価版と続くPC/ATとWindows95の普及まで「パソコン」は暗黒期にあった。さらに言うと2000年ごろのウェブプラットフォームが現実感として開けてくるまで80年代のような「パーソナル」さはなかったように思う。
思うに、80年代のパソコンと90年代(後半)以降のコンピューティングは全くの別物だったのではないだろうか。
そこで8bitパソコンがなんだったかというと、実際はパーソナル「コンピュータ」ではなくパーソナル「メディア」だったのだろうと思うのだ。(当時ログインで伊藤ガビンがPCメディア論を振るっていたが、ここではもっと画用紙同様の素直な意味である)今からみると惨めな表現力しかないのだが自由に、難しい表現だが、扱うことができた。サラリとその場でBASICを組めばキーに音を割り振れるような自由だ。いくつかの8x8マスのカラフルな独自“文字”を設定してテレビ局しか触ることのできなかったCRT画面を芝生“文字”や樹木“文字”で埋め尽くし草原にしてしまう自由だ。
特に当時は計算能力に限界があったためユーザーも遅くて動かないアルゴリズムに凝ることより表現に凝ることに走ったのかもしれない。
ゆえにコンピューティングの正統な進化たるMacintoshやPC/ATではそれを引き継ぐことはできず、ラピッドプロダクションで表現を行うメディアであるウェブの普及までその再来感覚がなかったのだ。
そしてこれはコミック(60年代??)、アニメ(70年代??)と続きゲーム(90??年)が引き継いだ日本のサブカルチャーの基底をなす一つでもあると思う。
だから大人になったパソコン少年※が作るのはウェブプラットフォームランタイムではなく『PC-6601が歌うタイニーゼビウス』なのである。
「廉価版」を「けんかばん」という友人も!
面白いものはなかなか値崩れしない。
うーん、安くて面白いのが思いつかない。
廉価版で出てる奴を買うとか?
>http://anond.hatelabo.jp/20070615112339
言われてみれば。
そうだった。