はてなキーワード: 修飾語とは
(ブックマーク数がとんでもないことになったため、元増田はうかれている。なので匿名ダイアリーなのに、ペンネームまで書いてしまった。タイトルに大きく、須江岳史、と。しかし、プロの小説家でもない一人のプータロウが書いた文章がこんなにもてはやされることを、すこし疑問にも思っている。ちょっと足を伸ばして図書館に行けば、小説の書き方についての本はいくらでも手に入るはずだ。何かを学び取る目的ではなく、長すぎるからブックマークしておいた、というのなら、納得する。というかこの論は物語と小説をニアリーイコール扱いしていて、小説論としてはちょっと古いというか、語りという小説の大問題がスルーされていて厳しい。という指摘も当然のことで、普段、一人称の小説ばかり書いている自分には、人称とか視点とかいった物語を語る上での問題について取り組む実力は無い。「小説は自己表現なんだから、各々が語りたいように語ればよいと思う」のような言葉で、逃げることしか出来ない。僕の小説の実力がどの程度かは、http://texpo.jp/texpo/disp/16732を読めばわかると思います)
Ⅰ、小説概論
まず話の筋の作り方を考え、次にそれをどのように小説として表現するかを見、最後に小説を書く上での国語的諸注意事項を述べる。
そもそも小説がどのような構成要素から成り立っているかを考える。
まず、小説だけではなく物語一般の話の筋がどのように出来ているかを考える。
多くの物語は、欠損-充足の形を持つ。多くの物語は主人公に何かが足りない状態から始まり、それが満ち足りた状態で終わる場合が多いということである。
また、満ち足りた状態にたどり着くためには満ち足りた状態になるための行動が必要になる。そして行動をとるためにはその機会が与えられないとならない。
ここまでをまとめると、物語の筋は
欠損 – 機会 - 行動 - 充足
となる。
具体例としては、
少女は城で行われる舞踏会に行き、王子に会いたかった(欠損)。そして王子に会うことが出来た(充足)。
ただ、物語の面白みのためには、充足が起こらないほうが良いかもしれない。行動の結果が、充足の起こらない失敗に終わり、それが新たな欠損となり次の話の筋を紡ぎだすこともありうる。
よって、物語を構成する基本的な四つの要素は
欠損 - 機会 - 行動 - 結果(充足または失敗)
であるとする。この一連の流れが組み合わさることによって、物語は出来上がる。
具体例としては、
少女は城で行われる舞踏会に行き、王子に会いたかった(欠損)。そして王子に会うことが出来たが、十二時の鐘がなったので帰宅しなければならない(失敗に終わった結果、新たな欠損)。
少女は名乗り出て靴をはく(行動)。
後味の良し悪しの面から見て、最終的には充足で終わった方が良いように思われる。
また、欠損があって、それを解決する機会を与えられれば物語が始まることがわかる。
また、欠損を細分化したうえで見つかる欠損というのも考えられる。
たとえば、
鬼を退治するためにはお供を仲間にしなければならない。お供を仲間にするためには黍団子を持っていなければならない。
黍団子を持つためにはおばあさんから黍団子をもらわなければならない。
おばあさんから黍団子をもらうためには黍団子の材料を買ってこなければならない。
というように。
このようにすれば物語はいくらでも引き伸ばすことが出来る。書くべき物語の分量によって、どの程度まで細分化できる欠損なのかを慎重に選ばなければならない。
一つの物語で充足される欠損は一つとは限らないし、主人公たちの欠損が充足されるとも限らない。『ロミオとジュリエット』では、主人公たちの恋愛は成就しないが、キャピュレット家とモンタギュー家の関係が、対立から和解へと移り変わる。
物語は、話の筋それ自体で面白いことが最善であるけれども、それが出来ない場合には伏線によって面白さを増幅させるしかない。
ここでは、仮に伏線には四種類あるとする。
ⅰ)質問―答えⅱ)ある現象/行為への意味の付加―行為/現象の再現
ⅲ)行為・現象―行為・現象のリフレイン
ⅳ)思い込み―認知
それぞれ、順を追って説明する。
物語冒頭に置かれた質問に、ラストシーンで答えることで感動を増す。
具体例:どうしてキノはこの汚い世界を旅しているの?(冒頭の質問)
ある現象・行為にはある意味が隠されている、と登場人物が語り、その現象・行為が実際に現れる。
『アヒルと鴨のコインロッカー』だと、
『「(とにかく面倒だから、神様を閉じ込めて、全部なかったことにしてもらえばいいって。そうすれば、ばれない)」』(70ページ)という免罪の方法を提案して、実際に物語の最後付近でそれを行っている。
物語の中で起こった行為・現象が物語の終盤で再現されることにより、面白みが増す。
『アヒルと鴨のコインロッカー』だと、
『聞いてるわたしにも、どうやらこの姉弟がレッサーパンダを盗む気らしい、ということはわかった。』(216ページ)『動物園を振り返って、「さっきの子供たち、うまくやり遂げるかな?」と。』(222ページ)
というようなレッサーパンダを盗むという行為があった上で、
『「あれ、レッサーパンダだ」』
『「盗んだんだよ、あの子供たちは」』(339ページ)
間違った方法を目的を得るための方法だと思い込み、それが間違いであったことに気づく。多くの場合、気づくまでに行ってきた行為が主人公に、行為の目的とは反対の結果を持って跳ね返ってくる。
物語の筋が悲劇的に終わっても、ⅰ、ⅱ、ⅲの伏線が幸福を含意していると悲劇性を和らげることが出来る。
目的達成を阻むものが、あるものだと仮定して行動していたが、その仮定が正しくなかったことに気づくタイプの伏線。多くの場合、気づく前の行動が気づいた後に本来の意味とは反対の意味を持って主人公に跳ね返ってくる。
認知は、約束―報いの伏線によって引き起こすのが最も容易である。
主人公の目的を阻むものは四種類ある。カッコの中の左側は存在場所、右側は存在原因を意味する。
(自己,自己)例:主人公の性格の欠陥(他者,自己)例:主人公に対して恨みを持っている敵
(他者,他者)例:絶対悪
敵の仮定が4パターン、真実の敵が4パターンあるので、認知型の伏線には全てで16パターンあることになる。
これは、『あらすじ.com』の三匹のモンスターの概念を内包している。
(自己,自己)狼男(自己,他者)対応しない
(他者,自己)フランケンシュタイン
(他者,他者)ドラキュラ
物語には六種類の登場人物がある。
主体:物語の主人公。欠損を解決する。送り手:主人公に、欠損を解決する動機を与える者。
援助者:主人公に、欠損を解決する能力を与える者。
受け手:欠損の解決の享受者。
敵対者:主人公の欠損解決行動を阻む者。
それぞれ、同一人物が複数の行為項を演じても良いし、ひとつの行為項に複数人が入っても良い。たとえば、送り手と援助者が同一人物であることは大いにありうる。また、それぞれが必ずしも人間である必要もない。
欠損ごとに行為項モデルは立てられるので、ある場面では敵対者であった存在がある場面では援助者になることもありうる。
物語に出てくる全ての欠損について、行為項モデルの六つの登場人物を生めることが出来れば、それ以上の登場人物は物語に必要ではない。
物語の冒頭やクライマックスを盛り上げるためにシチュエーションは使われる。
面白いシチュエーションとは、即ちギャップである。
それは場所と行動のギャップであるかもしれないし、それまである登場人物のそれまでの行動とはかけ離れた行動かもしれない。いずれにしろ、「~であるにもかかわらず」という言葉で表される。
たとえば、「日ごろ温和な性格であるにもかかわらず、暴れ狂う」とか「静粛でいなければならない図書館であるにもかかわらず、暴れ狂う」とか、「たかが100円のアンパンを食べてしまっただけのことであるにもかかわらず、暴れ狂う」とか。
物語を組む順番として、『欠損-伏線とシチュエーション-細分化されていない欠損の話の筋-細分化されていない欠損の行為項モデル-細分化された欠損の話の筋-細分化された欠損の行為項モデル』といった順番で組んでいくのがスマートに行く。なぜならば、欠損がなければ物語は動き出さないし、伏線とシチュエーションは話の筋や行為項モデルあとから考えるとそれらに縛られて上手くいかないからである。
①、主人公が向かう目的を定める。②、主人公が見舞われる危機を定める。または、どのようなギャップがある状況に立たされるかを決める。
③、危機・ギャップが何故起こるのかを決める。(伏線の回収の仕方を決める)
④、危機がどのように回避されるのかを決める。(伏線の回収の仕方を決める)
⑥、必要ならば、下位物語にも①~⑤を施す。
⑦、物語(下位物語も含む)の適所に、ギャップによる面白みを与える。
⑧、整合性を与える。
また、どのような魅力的な登場人物・伏線・シチュエーションでも物語の自然な流れを妨げるなら切り捨てるべきである。
場面では、人物、場所、時間が描かれる。人物、場所、時間のうちのいずれかが変わったとき、場面が転換されたという。また、場面は一人称であれ三人称であれ場面に登場する一人の人物の視点を通して描かれることが多い。
場面の特徴として、行為・現象の一回性が挙げられる。場面は、一度しか起こらない行為・現象を場面に登場する人物の感覚を通じて読者に体験させる。
場面の始まり方として、人物・場所・時間を指し示して始まる場合、登場人物の行動から始まる場合とがある(台詞から始まる場合は、登場人物の行動から始まる場合の特殊例とみなす)が、そのいずれにせよイメージすることが出来るか否かが読解の容易さを決めるので、場面の開始からまもなく人物・場所・時間を明らかにしなければならない。
小説を読む上では情景をイメージしやすいほうが読解が容易であるといわれているので、色彩や位置関係を表す語を使って場所や時間を説明するべきである。
場所・時間の説明は描写法的だといえるが、その場所・時間におかれたものを登場人物の行動の目的語にすると、スムーズに場面を始められる。
何かが起こるたびに、その場面に登場している人物全員の反応を描くべきである。また、その感情は、どのような身体的動作を持って表情として表されたかを描くべきである。なぜならばイメージしやすいほうが読解が容易であるからである。
要約法は、登場人物が何度も行った行動や何度も起こった現象を記述する。場面法とは違い、複数の時間や場所をまたがる事が出来る。そのため、時間や場所の離れた場面と場面をつなぐのに要約法は用いられる。
要約法は場面と場面とをつなぐためにしか存在しない。
場面法が動画だとすれば、描写法は静止画である。
描写法は、場面が行われている空間にあるものを描写する。場面が行われているなか描写がはさまれると、場面の時間を止めることが出来る。
台詞は音楽で言えばフォルテ、地の文は音楽で言えばピアノのような効果を持つ。多くの場合、台詞はカッコにくくられる為に強調されるが、台詞続きの中で地の文が出てくると大きな強調効果を持つことがある。たとえば強調すべき台詞をあえてカッコでくくらずに地の文で処理することで大きな強調効果を与えることができる。
台詞と台詞の間の間をつなぐために、地の文をおきたくなることがしばしばある。こういったときのために、場面の情景を刻々と変化させるとか場面の登場人物に場面開始と同時に何か動作をさせる方法がある。
書き手の中で起こった感動が読み手の中でも起こるためには、文が書き手の意図するとおりに伝わらなければならない。誤読を少なくする方法をここでは述べる。誤読を避けるために、修飾語と被修飾語、主語と述語は可能な限り近づける必要がある。
「私は走る車に飛び乗る」のような文は、読者が「私は走る」と理解した後で、走っているものは車だと改めて理解する。このような事をなくするために、「走る車に私は飛び乗る」のように主語と述語を近づける必要がある。
主語と述語の対が二個以上あり、どちらかがどちらかの文の成分になっているような文を複文という。
「私はリンゴを片手で握りつぶす彼はとても握力が強いと思う」というような文は読解が難解である。これも、主語と述語を出来る限り近づけ、「リンゴを片手で握りつぶす彼はとても握力が強いと私は思う」とすると読解が容易になる。また、複文を単文(主語と述語の対が一つである文)に分解し、「彼はリンゴを片手で握りつぶす。彼は握力がとても強いと私は思う」というようにすると、誤読は少なくなる。
日本語は上から下に修飾が行われるため、様々な不都合な事が起こる。
「美しい獣と女」は、美しいのが獣だけなのか、獣と女の両方が美しいのかが判然としてない。美しいのが獣だけである場合は、「女と美しい獣」のように順序を入れ替えるか、「賢い女と美しい獣」のように両方に修飾語を与えてしまう方法がある。
「地中海で育った少年からもらったトマト」は、トマトが地中海で育ったのか少年が地中海で育ったのかはっきりしない。トマトが地中海で育ったのであれば、「地中海で育った、少年からもらったトマト」のように読点を打つか、「少年からもらった地中海で育ったトマト」のように順序を入れ替えればよい。ただし後者の場合、地中海を少年からもらったように誤読される可能性が無くもない。
ガーデンパス文や修飾の範囲の判然とない文を作らないために、長い修飾を伴う語を文の始めに持っていく方法がある。
「僕は地中海で育った、青白い肌をした細身の少年から貰ったトマトを食べた」よりは「青白い肌をした細身の少年から貰った、地中海で育ったトマトを僕は食べた」の方が誤読が少ないとされる。
一文の中に含まれる用言(形容詞、形容動詞、動詞)と難読語の量、読者の視線の移動距離に依存して、文章の体感時間は定まるとされている。
たとえば①、「彼が作った美しいサッカーボールを僕は強い力で蹴飛ばす」よりは②、「彼が作った美しいサッカーボール。それを僕は強い力で蹴飛ばす」の法が一文に含まれる用言が少ないために体感速度が短いとされる。③、「ええい、お前は畢竟、俺が死ぬのが怖いだけだ」の『畢竟』が難読語だと見なす人にとっては④、「ええい、お前は結局、俺が死ぬのが怖いだけだ」の方が体感速度は短いかもしれない。また、⑤、「やわらかいネコ」よりは⑥、「柔かい猫」の方が、視線の移動距離が少ないために体感時間が短いとされる。
小説の場合、論説文とは違い改行は自由に行える。
行を改めたときは一段下げる。
「しかしカギカッコで新たな行が始まるときはその限りではないというのが最近の主流である。また、主流では閉じカッコの前では句点は打たない」
――また、三点リーダー(…)とダッシュ(―)は二つで一つの扱いをする……。
SNSやブログで性別を出さないと勝手に女だと決め付けられる。
趣味や文体で判断し辛いのかもしれないが男っぽさは出てると思う。
女かな?くらいならいが、決め付けられると反応に困る。
言い寄ってきてんのかなと思っても、確信もなしに「一応言っておきますけど俺男だから」とか言いにくい。
適当に流してるし特に実害もないが。
自覚がないだけで女っぽいところが他人よりあるんだろうか。
おそらく、修飾語が多いのが、女性の文章に見えるのではないか。
これで駄目ならここまでやる。
SNSやブログで性別を出さないと、何故か勝手に女だと決め付けられるでゴワス。
趣味や文体で判断し辛いのかもしれないが男臭は出てるハズでゴワス。
女と決めつけられると不愉快でゴワス。
言い寄ってきてんのかなと思っても、確信もなしに「おいどんは男でゴワス!」とか言いにくいでゴワス。
自分で気が付かず、おんなっぽいのでゴワスかな?
私の中で文章が固まらないので思いあまって消しちゃいました。ごめんなさい。
返答頂けたのに恐縮です。
一応元の文章を元に戻して張っておきます。
以下本文
(http://anond.hatelabo.jp/20090414110958へのトラバ)
昼休みなので完結に。ぎょうしゅく指摘の増田です。材料学科卒です。
なんか膜っぽい論文も書きました。でもよく覚えてないです。
元の朝日の記事に対してはOKなの?
改ざんがあったのは「湿分分離加熱器」と呼ばれる機器の配管のデータ。原子炉で発生した水蒸気を加熱するとともに湿り気を飛ばす機器で、高圧タービンと低圧タービンの間に設置されている。
との事だけど、
やっぱり水蒸気を加熱するとともに湿り気を飛ばすという所に分かり難さがあるという元増田の意見には同意。
湿り気?湿分分離加熱器という名前だからって態々同じ漢字を使うのは何故?意味あるの?と。
この会社はコラムに素粒子という欄を持ってる位なので水分子という言葉を用いても吝かではないと思うのです。
そういう理由で、湿り気等という言葉を用いるのは誤解を招きかねない書き方だと私も思う。
私が思うに、文系の人や新聞記者の書く新聞記事には、「主語-述語(-修飾語), 明確な代名詞の関係性のない文」、すなわち、よくも悪くも日本語らしい文が多いと思っている。一方で理系の人は、卒論や論文を書いたりする際に、技術文書の書き方(基本的には、主語-述語関係が明瞭で、直訳で英訳しても問題ないような文と、文脈構成)をトレーニングされる。その違いが、理系と文系の違和感を生み出す原因だと私は思っている。
理系文章と文系文章という括りを作って正しいというならそれでよろしいけど、
日本語で書かれた文学作品でも素晴らしい文章で主語述語関係明瞭なものもあります。
そもそもきちんとした理に適う文章が書ける人間=理系、という風には思えません。
もしそうだとしたら何で理系の教科書は主語述語関係が不明瞭であんなに分かりづらいのが多いんだ。
文系云々じゃなくてこの記事を書いた朝日の記者の記者としての日本語力がどうなの?という点だと思う。
我が家は全員理系に属していますが、時折出てくる変な日本語に頭を抱えてます。
(でもこれはどの新聞でもある傾向なんですってね!)
ぎしゅくの増田です。
元増田さんの理解の仕方で、どうも同意できないところがあって、
「原子炉で発生した水蒸気を」導入する装置が「高圧タービンと低圧タービンの間に設置されている」。原子炉で発生して、そのままこの装置に導入されたのかと思っていたらタービンが出てきて混乱して「設置されている」ってのが物理的な場所のことかと誤読しそうになる。
太字は当方注。この導入するという理解・補完が、どこで生じたのかが僕には理解できなくて、元増田の主張がイマイチ見えてきていない。
で、当方が新聞記事のままでokだと思ったのは、下記のような感じで脳内補完してるからだと思う。基本は新聞の原文ままで、一部の文節を入れ換えたり補強し、その部分は太字で示した。
データの改ざんがあった場所のは「湿分分離加熱器」と呼ばれる機器のにある配管のデータである。この機器・配管は、原子炉で発生した水蒸気を加熱するとともに、湿り気を飛ばすための機器で、その機器が設置されている場所は高圧タービンと低圧タービンの間である。(に設置されている。)
この補完のポイントは、主語・述語の対応関係と、暗黙の代名詞の関係をクリアにしていくことだと、私は考えている。
私が思うに、文系の人や新聞記者の書く新聞記事には、「主語-述語(-修飾語), 明確な代名詞の関係性のない文」、すなわち、よくも悪くも日本語らしい文が多いと思っている。一方で理系の人は、卒論や論文を書いたりする際に、技術文書の書き方(基本的には、主語-述語関係が明瞭で、直訳で英訳しても問題ないような文と、文脈構成)をトレーニングされる。その違いが、理系と文系の違和感を生み出す原因だと私は思っている。
~の方法論、というのはここではその学問分野が持つ正当性の根拠となる方法論、という意味で使っている。たとえば「物理学の方法論」を考えてみると、「定量的に扱えるようにしろ」「実験主義」なんかが挙げられると思う。工学系だと設計の方法論と実際の製作、なんかも加わるだろう。経済学なら社会現象を説明するのに(定義した性質以外持たない)モデルを使う、とかだろうか。社会科学系なら実地調査主義とか。私は工学系の人間なので文科系の学問分野がどのような方法論を持っているかに疎いが、大概の分野には何かしらの、その学問分野を方向付けている方法論があるように見受けられる。
以上は前置きで、じゃあ修飾語のつかない「哲学」、大学の哲学科なんかでやってるような「(the)哲学」と言われる分野の「方法論」というのはあるのだろうか(わざわざこういう書き方するのは、私にはないように見えるからなのだが)。"the 哲学"の「哲学」、つまり何を目指しているのか、というのは何となく分かる。1フレーズで表せば「意味を探る」といったあたりにあるんだろう、という風に外野からは見える。物理学が物理現象の”意味”の探求を諦めたところに成立している※のとは好対照だろう。
※例えばニュートン力学の範囲ではF = maはなぜこのような形をしているのか、というようなことを考えたりしない。一番基本的な式だからだ。この式を生み出しているより基本的なメカニズムが分かればそれに伴う修正はするが、力が質量と加速度の積になっていることは神の意志だとか人の生きるべき道だとかは言わない。価値判断を停止していると言ってもいいかもしれない
目指す方向があるのはそれでいい。では、その目標を実現するべき方法論は一体どこに置いてきているんだろう。いやポストモダンの思想界には脱構築という方法論があってですねなどと聞こえてきそうだが、それは物理学における定量化の原則や実験主義に匹敵するほどの、サルでも分かる方法論なのかというとそうではない。私には脱構築は三行ではまとめられない。定量化なら数字を出せ、実験主義なら実際にやれ、それぞれ5文字で説明できる。文字数自体にはあんまり意味がないが、極小のフレーズでサルと言わずとも中学生くらいに実行出来ることに意義がある。私のthe 哲学に対する理解の不足を割り引いても、脱構築は方法論と言うには複雑過ぎる。一事が万事この調子なので、結局the 哲学にある方法論らしきものは、ひたすら頭で理屈をこねるという以上のものが見あたらない。確かにthe 哲学をやっている人は並々ならぬ頭のひねり方はしているようには見えるが、しかし頭を使うというのはどの学問分野でも同じことで、頭をひねることだけが制約事項というのは事実上ノールールということだろう。
何の制限もなく(制限がないとは方向性がないということの裏返しな訳だが)何かを考える、というのは思考の運動としては確かに面白い。面白いが、大学で専任の教授を雇ってする類のものかと考えると疑問符がつく。疑問符がつくというか個人的な感想を言えば税金を使うのはやめて、民間団体にでも任せればいいのではないかと思う。かくして文学部哲学科不要論者がここに一人生まれたわけである。