はてなキーワード: シミュレートとは
(酒席で胸触らせてとか言う人には)「高いですよ」というと大体問題ない。
シミュレートしてみた。
A「んー、Bちゃんかわいいなあ…」
B「あはは、ありがとうございます」
A「ホントかわいいな。いいなー、柔らかそう……ね、このおっぱい触っていい?ね?」
B「ちょwwww何言ってんですかw」
A「イヤ、マジで。オレもうAちゃんのおっぱい大好きなのよ。ね?ちょっとだけ。ちょっとだけ。触らせてくれない?ね?」
B「いやいやwwちょwww。『高いですよ』」
A「え!いくらいくら?ね?ね?」
B「えーと(生涯にかかるコスト…?て、いくらくらい?生涯年収? …3億?)さ、3億円です」
A「分かった。結婚しよう。」
B「おk。」
…
ちょw
って、たまに言われるんだけど。あ、いや、ごくまれに、いや、生まれてから何回か、かな。まあそれはともかく。
女の子の言う「やさしい」って、その人を形容する表現が思い浮かばなかったときの最終手段なんじゃないかと思った。
プログラムっぽく書くとこう。
if ( $masuda =~ /なんか本読んでる/ ) { $description = "知的"; } elsif ( $masuda =~ /なんか運動してる/ ) { $description = "アクティブ"; } elsif ( $masuda =~ /なんか音楽詳しい/ ) { $description = "センスいい"; } elsif ( $masuda =~ /さりげなく手伝う/ ) { $description = "やさしい"; } else { $description = "やさしい"; } print "増田くんって" . $description . "よね\n";
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0703/15/news002.html
色弱についての理解が少しでも広がるといいな。
色弱にもいろいろあるから一概には言えないのだけど
実感としての不便は電子機器に多い赤ランプ緑ランプ。
えーどっちがどっちよ。物によるけどわからないものは本当にわからない。
点いているかどうかならわかるからそれを利用してどうにかならないか。
後は今は困ってないけど、昔困ったのは抵抗。
わかんねー。
あとは黒板に赤いチョークも勘弁。
これは本当に見えない。書いてあるかどうかもわからないことがある。
まあ、これは直接その人に言えばすぐ解決するのだけど、言えない時は困る。
あと、よくあるのはそこの緑のやつ取ってーとか赤いのとってーとか。
昔、淡色の赤い模様がはいった茶碗と同じく緑の模様が入った茶碗があって
ある日、妻に「そういえば、お箸はいつも揃えるのにお茶碗はバラバラだよね」って言われて
違うことに気がついた。2年間気がつかなかった。指摘されなければ一生気がつかなかった。
あとは高専入学する時にすこしゴタゴタしたかな。
まあ、そんなこんなで見えないものは見えないのです。
あくまでこれは個人的な体験ですけどね。
他のパターンもあるので、見えない人とパターンがあることを知っておいてもらえれば。
サイトなんかだと見えなくても選択反転させるとか自前CSSとかでなんとかなっちゃうんですがね。
実生活だと赤いフィルター使うとかね。
以下、興味のある人向けまとめ
今週の週刊新潮だったかで(立ち読みだったのであんまりよく憶えてない)酒井順子が、「田舎に行くとセクハラまがいの言葉を平気でかけてくるオジサンやオバサンがいるけれど、ああいう言動って日本的な共同体意識の産物だよね。その点東京の人たちは、ちゃんと他人に干渉しないという作法が身についているから、デリカシーがあっていいなあ」みたいな主旨のことを書いてた。概ねそれは同意なんだけど、じゃあ「他人に干渉しないという作法」ってのは本当に共同体意識から逃れているのかなあ、ということを時々考えたりする。東京、あるいは都市部の人の、潔癖すぎるようにも思える過剰な「他人に干渉しない」主義というのは、「他人に干渉してはいけないという規範を強制する」という干渉だとも考えられるんじゃないか? それが極端な場合はときとして息苦しいものなんじゃないか? とも思うのだ。田舎の人の立場をシミュレートしてみると、「東京の人はホンネを隠して体面ばかり取り繕って生きているので艶話の一つもできない。あの気遣いは日本的な共同体主義の産物だ」という言い方だってできるんじゃないだろうか。
だから、大切なのは、「他人に干渉する自由を犠牲にして、他人から干渉されない自由を主張すること」でも、「他人から干渉されない自由を犠牲にして、他人に干渉する自由を主張すること」でもなく、「他人に干渉してよいスペースと、他人から干渉されないスペースとを、選択して行き来できる自由」を守ることだと思うのだ。
脱非コミュを達成するために最初に着手したのはファッションで、月5000円の小遣いで
自分に必要なアイテムをゲットするのは不可能だと悟り、昼飯を弁当にするデメリットを
あげて親と交渉して、毎日500円昼飯代をもらえることになり、土曜日曜も受験勉強を
しなきゃだめだ!家では勉強できないから学校の自習質で勉強する!と宣言して土日も
極力500円をもらうことでようやく月に約20000円の収入を確保した僕は、かってに改蔵に
皮肉られながらも昼飯をほぼ全く食わずに毎日を過ごし(そのうち200円くらいは
使うようになったが)雑誌を読んで丸井を回って(田舎にはろくな店がないのだ!)
奇抜さを排した3年先まで着られるアイテムで、シンプルだけど清潔で色の幅がある、東京生活を
楽しむ大学生として可もなく不可もなく、でも平均よりはお洒落くらいの印象を与えられるコーディネートで、
数がそろわないうちでも3日、大学入学時には1週間くらいはローテーションがもつようにするには
それまで手に入る金から何を購入するのが最も効率的な投資であるかを綿密にシミュレートし、
週に一度は店を見て周り、いざ購入したいアイテムがあっても最低1日は計画表を見て悩み、
美容院・ワックス代スキンケア用品代を計算に入れ直して全体の計画を修正、なんてことを1年くらい
やってたらmixiの紹介文ほぼ全員に「お洒落」「イケメン」「肌キレイ」「モテる」のキーワードが
入るようになりましたとさ。マジで。mixiのページだけならどう見てもリア充です。
ええ、もう、本当に本当にありがとうございました。
僕だけかもしれないが、じっくり考えてやることは大抵上手くいかない。
テキトーに思いついたことが結構上手くいったりする。
曲作ってても、じっくり構成を練って色々やった時は大抵完パケしないけど、ギター弾いてて思いついたフレーズをパパッと録音してエフェクトかけてハイ完成ってやるといい評価がもらえたりする。
試験なんか受けてても、じっくり考えて導き出した答えよりもパッと思いつきで答えた問題の方が正解してたりする。
彼女と喧嘩した時なんか、仲直りのためのシミュレートを綿密にして対話に臨むと大抵もっと溝が深まってアチャーな感じになる。
なんでだろうなぁっていつも思ってたんだが、これは自分が身の程をしらな過ぎるからなんじゃないかなぁと思った。
僕があれこれ考えて行動に移るときは大抵自分の能力を過大評価している時だからだ。
中学から大学にかけて自分の人生を振り返ってみると大きな失敗((調子に乗っていた分ダメージが大きいと感じているのかもしれない))をしている時は大体調子に乗っているときだ。
中学の頃は、家の事情で転入した先が学力的にかなり底辺な公立校で、そこそこ勉強のできた僕は((そこではトップクラスなわけで))妙な全能感というやつを感じていた。偉そうにしてたら何だか知らんが彼女も出来た。
しかし第一志望の高校に落ちた事でその全能感をボロボロに打ち砕かれた僕は高校の3年間を附属高校特有のgdgdな雰囲気漂う教室の隅っこでうじうじだらだらと過ごしていた。彼女にも振られた。良い思い出なんて何一つ無かった。ただマイブラとスミスを聴いて漫画読んでエロゲーやって過ごしていた。
そんでもってエスカレーター式に大学に入ると同じような鬱屈を抱えた人間に多く出会って『ボクはここに居てもいいんだ!』という承認欲求が満たされまくるという状態になるとまた僕は調子に乗る。調子に乗りすぎたせいで何人かの人たちを大きく傷付けてしまった。
こうして思うのは、『身の程を知る』という事はとっても重要なんだなぁと思う。
じっくり考えて行動するのは確かに大切なことだ。
でも僕がシミュレート仕切れるほどこの世界は甘く無いって事なんだと思う。
「なにも考え無いでやることが上手くいく」わけでも、「じっくり考えてやることは上手くいかない」わけでもない。
何も考えないでやるってことは僕の素の能力を行使しているわけで、それが僕の実力という事なのだ。
頭の中でシミュレートされている『僕』は僕自身の能力を大きく飛び越えてしまっている事が多い。
僕の頭の中の『僕』を実際の僕に近づけていくことが必要なんだと思う。
ときどき無性に日の出が見たくなる。
それは今日みたいにこんな時間に目が覚めてしまった、あるいは今まで起きていたような日で、
つまりは不規則な生活のあらわれだ。怠惰の証拠だ。だって普段の俺の生活リズムなら
こんな時間に起きるはずなんてない。ぐうたらし尽くしてるとき、たまにこんな時間に起きてる。
そして無性に日の出が見たくなる。
もしくは逆に、無性に日の出が見たくなったから起きた、のかもしれない。
まあとにかく見たくなる。特に冬の空は格別だ。月並みだけど空気が張り詰めてていい。静けさが際立つし、空の迫力が尋常じゃない。今夜明けだが、昨日みたいにものすごく降ったあとでカラカラに晴れたときの夜明け前から日の出までなんて、もうこれだけで泣けるぐらい凄い。そして日の出はもっと凄い。見た瞬間、今日も一日頑張ろう、って気になる。頑張る?こんな時間に起きてるぐらいぐうたらなのに?眠気も最高潮のはずなのに?そう。実際今日も一日頑張れない。あの誓いは何だったんだってなるのがいつものパターン。でも、太陽を見てる間だけはホントに、心の底から勢いがせりあがってくる。やっぱ太陽は凄い。自殺志願者は富士の樹海へ行く前に五合目でも何でも行って太陽を見るべきだと思う。富士山といえば毎年元旦のニュースで初日の出をみ隊、のような連中が報道されるけど、あの人たちの気持ちはホントわかる。年明けたばっかなのに人波にもまれて人が作ったおみくじで一喜一憂するのはさらさらごめんだけど、年明けたばっかなのに日本で一番高い山をヒーヒー言いながらただ単にでかい火の玉眺めに登るのは全然アリだ。ていうかこれ打ってる間に空がもう白んできたけど、どうやら今日はハズレの日みたいだ。カラッカラに晴れてるかと思いきや、ホライズンのあたりにクラウドがギッシリで日の出がよく見えないまま朝になってしまった。でも何か元気だ。打ってる間に心の中で今まで何度も見た日の出をシミュレートしたおかげかもしれない。太陽は、俺の心の中にあるんだね・・・。よし、かっこいいこと言った気がする。そろそろ寝よう。もう7時だし。・・・あれ?