今週の週刊新潮だったかで(立ち読みだったのであんまりよく憶えてない)酒井順子が、「田舎に行くとセクハラまがいの言葉を平気でかけてくるオジサンやオバサンがいるけれど、ああいう言動って日本的な共同体意識の産物だよね。その点東京の人たちは、ちゃんと他人に干渉しないという作法が身についているから、デリカシーがあっていいなあ」みたいな主旨のことを書いてた。概ねそれは同意なんだけど、じゃあ「他人に干渉しないという作法」ってのは本当に共同体意識から逃れているのかなあ、ということを時々考えたりする。東京、あるいは都市部の人の、潔癖すぎるようにも思える過剰な「他人に干渉しない」主義というのは、「他人に干渉してはいけないという規範を強制する」という干渉だとも考えられるんじゃないか? それが極端な場合はときとして息苦しいものなんじゃないか? とも思うのだ。田舎の人の立場をシミュレートしてみると、「東京の人はホンネを隠して体面ばかり取り繕って生きているので艶話の一つもできない。あの気遣いは日本的な共同体主義の産物だ」という言い方だってできるんじゃないだろうか。
だから、大切なのは、「他人に干渉する自由を犠牲にして、他人から干渉されない自由を主張すること」でも、「他人から干渉されない自由を犠牲にして、他人に干渉する自由を主張すること」でもなく、「他人に干渉してよいスペースと、他人から干渉されないスペースとを、選択して行き来できる自由」を守ることだと思うのだ。