はてなキーワード: 知覚とは
の、「認める」って何だ?
とふと思った
何気なく聞くけどそういえばいまいち漠然としたイメージしかない
みと・める【認める】
[動マ下一]みと・む[マ下二]
1 目にとめる。存在を知覚する。気づく。「人影を―・めた」「どこにも異常は―・められない」
2 見て、また考えて確かにそうだと判断する。「有罪と―・める」「頭がよいと―・める」
3 正しいとして、また、かまわないとして受け入れる。「自分の非を―・める」「試験に教科書の持ち込みを―・める」
4 能力があると判断する。「世に―・められる」
5 気をつけて見る。じっと見る。
辞書で引いてみた。4番の意味ということかな。ああ、ちゃんと、こういう意味が含まれてるんだなぁ。1??3くらいしか考えてなかった。
要するに、誰かに認めてもらいたいというのは、「あなたはある面において、能力がある人です」「あなたは、ある面において、価値がある人です」って感じに思われたい、誰かに必要とされたい的なことなのかな?
人々はしばしば不合理で、無分別で、自己中心だったりします。
それでも、彼らを愛しなさい。
「人々は」って、お前は人じゃねぇのかよ。何で他人事みたいになってんだよ。お前はその「人々」に入ってねぇのかよ。
良い事をしても、人々はあなたに自分勝手な隠れた動機があるのだろうと非難するでしょう。
あなたが成功すれば、あなたの周囲にはおべっか使いの不実な友人や、真の敵が増えるでしょう。
今日行った良い事は、明日には忘れられてしまうでしょう。
人々は口では勝ち目のない方を応援していても、結局は勝ったほうにつきたがります。
人々は助けを求めていますが、本当に助ければ手を返してあなたを襲うかもしれません。
あなたの持てる全てを世界に与え尽くしても、それでも十分ではないと言われるかもしれません。
お前は違うのかよ。自分はやらないと誓えるのかよ。そんな事誓えるのは、まだ実際に社会に出てその場に居合わせた事のない糞学生だけだぞ?
何か、自己啓発みたいなのってずっと気持ち悪い印象だったんだけど、やっとその理由がハッキリした。
「人々は」とか「この狂った世の中は」とか、そういうのが気持ち悪かったんだな。
何で、自分のこと棚上げしてんの? 何、自分は誰にも迷惑をかけてないし、そのお前の言う狂った世の中を作り出す要因にもなってないと言い切れる訳か?
「相手の事を理解してあげれば、貴方のことも理解してくれるでしょう」みたいなのも、何だそれw 何でちょっと断定口調なんだよw
「相手のことを理解できた」って何でお前が知覚出来るんだよ。そんなもん相手本人にしか分かんねーじゃねぇかw
そんで何で、「理解してあげれば理解してくれるよね?」みたいな強制なんだよ。都合良すぎだろそれ。
何かこう、ネット界隈を見ていても、「お前、自分のこと棚上げしてね?」みたいなのが多いよね。
非モテ議論で「結局、この世は顔なんだよ」みたいに言って燻る奴居るけど、じゃあお前は、顔が良い女と顔の悪い女、どっちに初対面で好感を抱くんだよ。
何、「自分だけが不幸」「自分はあいつらとは違う」みたいな前提で話してんだよ。
自己啓発系の本を何冊読んでも、何の成長もない奴よく見かけるけど、結局お前のその辺の考え方が一番問題な気がするんだよなー。
別に、「自分とは違う事をしている人たち」を非難するのは良いんだけど、誰もが当てはまるような(そしてお前も含まれてるだろって感じの)「人々」やら「世の中」を、ひっくるめて非難しているようなのは、見ていてどうかと思うんだ。
http://anond.hatelabo.jp/20070603203216
【おいしさの重要度】
淹れたて>挽きたて>>炒りたて>>>>>豆のブランド
んー、前三つって比較するもんじゃないと思う。うまいと思うコーヒーを飲むために最低限必要なことだから。この三つを無視する時って純粋にカフェイン摂取兼息抜きだし。ついでに言うと、水出しの場合一日くらい美味しさが持続するね。
それと高級豆よりも売れ筋の安い豆のほうが実はおいしい。(商品の回転が早くて鮮度がいいので)。庶民にコーヒーのブランドは無意味。
ブランドって焙煎のメーカーのことかな。それとも産地とかCOEのこと?
商品の鮮度を言えば、賞味期限を見たら一発でわかるのだから、安い豆以前に賞味期限が一番長いの選ぶだけだと思うし、コーヒー専門店なら直接焙煎後何日か聞くだけだと思うんだけど。もしかして賞味期限の1年前が出荷日=焙煎日なの知らないのかな。まさか、メーカーによっては売れ残りのオールドクロップとニュークロップを混ぜてるとかいうレベルの話?それは流石に私の味覚では知覚できないな。ロット違いとかビンテージの変わり目は分かる場合もあるけど((メーカーによって焙煎の仕方を変えることがしばしばあるから分かる))。
あと、産地に関して言えばどの店もキリマンジェロなどのタンザニアの豆は酸味をきれいに出す為に浅煎り、ブラジルやコロンビアは甘さを出すために中煎り、グァテマラやマンデリンはコクのある深煎りにする傾向があるから、産地名=味のコンセプトと思っておいていいから参考になるよ。
鮮度=泡としているようだけど焙煎の度合い((深煎りか浅煎りか))で泡の出方が違うし、鮮度が良くても焙煎の腕((焙煎の均一さ、狙い通りの焙煎度に出来るか等))が悪いコーヒーはまずい。豆の等級が低くても同じくまずい。焙煎して二三日しないと炭酸が暴れていれにくいのも忘れてはいけない。
5年くらいまでは100グラム250円クラスでも出物があったけど、最近は350円台を出さないとA級のクロップがない。日本に輸入されるA級生豆の値段全体が上がっている様子。
本気で淹れようと思ったら、カルキ臭い水道水は濾過して、湯の温度に神経をとがらせ、豆の炭酸含有量を参考に湯の投入量をコントロールして、サーバーのコーヒーを温めなおして香りを最大限に活性化させて、とか疲れる。あと本気で上手いコーヒーを入れる場合私の技術では2杯分(マグカップ一杯分)が限界。
まぁこういうのは愉しいのですが。
俺の下半身が今年は芸術に生きろなんて小粋なアドバイスをしやがる。
おう、それじゃあお前さんはどうするんだよ、俺がかまってやらなくても平気なのかって聞いたら、
自分は他に面倒見てくれる人を見つけたらもういいよって言うんだ。
いや、たしかにお前の面倒は俺の面倒でもあるわけだが、どうにも納得がいかない。
別に今までの分を返してくれとかそんな話じゃなくて。
そもそもそいつ、本当に大丈夫なのか?信頼できるのか?
それより何より、俺よりいいってことか?
おいおい、それってずいぶん残酷じゃないか。
だいたい神経はすべて脳に繋がってるんだぞ?そして感覚や知覚は脳で生じてるんだぞ?
いくらお前が気持ちよかろうがそれはお前じゃなくて俺が気持ちいいんだからな。
そこんところ忘れんなよ!ああ虚しい。
こいつどうして一人で生きてられるような顔をしてるんだ?いつのまにか妙に流線型じゃねえか。
こうなったら徹底的にお前のことを作品にしてやる。
世間に晒して、二度と表を歩けないようにしてやる。
世界で一番有名なやつにして、紅白の審査員に呼ばれかねなくしてやる!
そしたらお前の新しい相手はどう思うかな?
もちろん、俺の芸術は誰かを不幸にするために存在するわけじゃない。
俺自身の生きることそのものの問題なんだ。
要するに、お前こそ俺の生きる全てだってことなんだ。
向がある。
なんかしっくりこないのでこの辺に捨て。
メニューが画面上端にあって常に遠いことに不満を漏らすと「何も考えずにマウスを動かして、カーソルが止まるところにメニューがある。合理的」と、環境問題の解決にはリサイクルが有効だよみたいな「それってスゲー!でも本当なの?」的論法でかわし、ファイルにフォーカスを合わせてEnterキーを押し下げると、ファイルオープンではなくリネームになることの不合理さを問い詰めると「それは仕様、慣れろ」と決して譲らない。
我々の日常生活において、何も考えず無意識に操作する際によく使われているインターフェースは、触覚もしくは聴覚によるフィードバックである。それはヒトは知覚の相当な部分を視覚に頼っていることに由来する。つまり「何も考えない」ということは「何も見ない」ことであり、ここを本来正当なスタートラインとすべきなのだが、この論法は視覚を大前提としている。本当とみせかけて実は嘘っぽい理屈である。そもそもコンピュータを操作する際に「本当に何も考えず」操作した結果が何をもたらすか思い出してみればいい。自分の期待した完璧な結果が得られる可能性はゼロと決まっている。
Enterキーがリネームとして動作する仕様は、「もったいない」としか言いようがない。なぜこの絶好のキー配置がファイルオープンではないのか。まったくもって意味が分からない。MacOS9以前を知らない人間には迷惑ですらある。
あー、あなたもアスペルガーですねw
たとえば、生まれつき赤い色が知覚できない色弱の人は、赤い色という知識は取り入れることができるが、赤い色を体感することは生涯不可能。そういうこと。
その中で一件の屋台に、ふと目がとまる。
人間料理を売っているのだろう。垂れ幕にコミカルな人間のイラストが描かれている。
その人間のイラストは、屈託のない、と言っていいような笑顔だった。
瞬間、物凄い違和感に陥った。
怒りでもない。悲しみでもなければ、哀れみでもない。
単純に違和感としか表現出来ないものだった。
しばらく歩きながら、心を落ち着けて考えてみた。
「ああ、単純に、納得出来なかっただけなんだ」
人間が人間を殺すのが当たり前になる瞬間がある。ブッシュが大統領になったからだ。
そんなの誰だってわかってる。自分だってわかってる。
恐らくいつも、こんな問答は繰り返してきたのだ。無意識に。数え切れないほど。
恐らく遠い昔に悩んで、答えを出して、割り切ったのだ。
だから今は悩むことはない。感情より先に理性が処理し、知覚することはない。
しかし今日は。
「でも、あの笑顔はないだろう」と、思ってしまった。
だから処理が遅れた。わずかばかり。感情が溢れてしまった。ほんの少し。
こんな事考えるそれ自体が、人間の傲慢だとわかっていながら。
…こんなに弱い人間だっただろうか、俺は。
その中で一件の屋台に、ふと目がとまる。
豚肉料理を売っているのだろう。垂れ幕にコミカルな豚のイラストが描かれている。
その豚のイラストは、屈託のない、と言っていいような笑顔だった。
瞬間、物凄い違和感に陥った。
怒りでもない。悲しみでもなければ、哀れみでもない。
単純に違和感としか表現出来ないものだった。
しばらく歩きながら、心を落ち着けて考えてみた。
「ああ、単純に、納得出来なかっただけなんだ」
人間が牛や豚を殺すのは当たり前だ。食べないと死ぬから。
だが殺される側の牛や豚は決して笑顔ではないだろう、とも思う。
そんなの誰だってわかってる。自分だってわかってる。
恐らくいつも、こんな問答は繰り返してきたのだ。無意識に。数え切れないほど。
恐らく遠い昔に悩んで、答えを出して、割り切ったのだ。
だから今は悩むことはない。感情より先に理性が処理し、知覚することはない。
しかし今日は。
「でも、あの笑顔はないだろう」と、思ってしまった。
だから処理が遅れた。わずかばかり。感情が溢れてしまった。ほんの少し。
こんな事考えるそれ自体が、人間の傲慢だとわかっていながら。
…こんなに弱い人間だっただろうか、俺は。
なんとなく今は、肉が食べたくない。
http://anond.hatelabo.jp/20070224143002
幼少期、父が「人は生まれて一番初めに知覚する限界は、肘の関節が一定方向にしか曲がらないと気付かされる時である。」などとわけのわからないことを言っていたのを記憶している
譬えの上手い父上ですね…僕も使わせていただきます。
http://anond.hatelabo.jp/20070224120211
世の中の人間は自分以外の人間に全くと言っていいほど関心がない。
追い詰められて自ら命を絶つくらいなら、何もかも捨てて逃げればいい。
同感です。
http://anond.hatelabo.jp/20070223172044
この記事を読んで思ったことを、全く世間を知らない学部生が書き散らしてみます。
人は他者と関わりを持たずして生きるのは難しいので、他者との比較は不可避なものだと思う。コンプレックスなんてものは、他者との差異性が生み出すもので。けれども人は、差異性の中で自己を確立出来るもの。そしてその自己確立の過程においては、建設的な妥協というか自分に折り合いを付けることが必要だと思う。
タイトルは、大学で見かけた就活冊子に書かれていた就職支援室長だったか誰かの言葉。
私の通う大学には優秀な人が多く、今まで受験という競争を勝ち抜いてきたこともあって自信のある人が多い。そんな大学生にとって就職活動という存在はちょっと厄介な存在である。多様な価値観の中で、自分探しをし、自分にとって適職とは何かを探し、面接で何を言われても就活を頑張る。思うに、就活とは建設的な妥協を促してくれる重要な下地になっている。
さて、何故就活の話を出したかというと、人生には就活のような建設な妥協を促してくれる場面がちょくちょくあると思うからである。
幼少期、父が「人は生まれて一番初めに知覚する限界は、肘の関節が一定方向にしか曲がらないと気付かされる時である。」などとわけのわからないことを言っていたのを記憶しているが、確かに人は己自身の限界を感じながら生活をしている。例えばスポーツだったり、受験だったり、恋愛だったり、就活だったり、仕事だったり。自分自身の力ではどうしようもないもの(往々にして他者か環境なんだけど)の存在を知らしめさせられ、どうにか体の良い言い訳を探す。「やれば出来る」は天才の戯言であり、凡人にはその言葉は当てはまらない。「やっても出来ない事がある」という言葉の意味を否応なしに理解させられ、それでもなお自己肯定に拘泥する。その過程において建設的な妥協がなされ、それと共に自我が形成されていくと思うのだ。
話は戻って。
このエントリーを書かれた方は、学業に関してそういった状況を全く与えられずに修士課程まで出たということになる。学業に限って言えば、上記に挙げた受験や日々の学生生活において、他者との比較がなされ、限界を知ることになる。本来ならば、そうなるはずである。
私も大学に入って、世の中にはこんなに凄いヤツがこんなにもたくさんいるのかと感心した。一応、高校時代は頭のいいキャラで通っていたが、大学に入ると下から数えてすぐぐらいの頭。それでも他人は他人だし、わざわざ他人との比較の中にだけ生きる必要は無いと思ってるので、コンプレックスというのを感じたことはあまりない。まあ、大学生活において友人達の聡明さに感心することはしょっちゅうだけれど。
しかしながら、比較対象が全て自分よりも下(何を基準にするかは不明だが)と自身が認識するような存在であった場合、優越感は抱いても劣等感を抱くことは極めて少ないであろうことが容易に想起される。価値基準に多様性を求めない限り(というか、この人は頭の良さという単一の価値基準しか持っていなかったのかも知れないが)、この人は「どうすればまた輝けるのかを」見つけられない気がする。彼の言う「輝く」が「優越感を抱く」を指しているのであればなおさらであろう。
優越感を抱くこと自体には多分、それほど問題は無い。人間関係を阻害するぐらいでなければ、鼻にかけるのもそんなに問題ではないのかも知れない。ただ、個人的に問題だと思うことがひとつある。優越感を抱いた人は、肥大した自我を持ちやすいということだ。かつて自分自身も肥大した自我を抱いたことがある。いや、正確にはまだ抱いてはいるが、それが比較的自分自身の身の丈に合ってきたといった方がよいだろう。兎も角、肥大した自我の存在は絶対的である。自分の知覚する世界において、ほぼ万能。一種のナルシシズムといえるのかも知れない。「正直、世界の構造の探求とか、どうでもよかったのだ。 難しいことをやれていれば。」とは、この方が書かれていることだが、他者には理解できないような難しいことをやっている自分が好きだったのだろう。そして、それを賞賛されることでデキる自分という自己認識を作り上げていく。それはそもそも他者との関係性の中から生まれたものであるにもかかわらず、外部環境が変化しても不変なものとして"他者よりも優れた自分という存在"をつくる。その存在と外部環境のギャップに煩悶する。肥大した自我を自ら作り出してしまったが故に、前に進めなくなる事がよくある。
で、結局何が言いたいのかというと。
多分何かを言いたいということはなく。
ただ、能力があっても比較の中でしか生きられない他人のエントリーを見て、ちょっと優越感を抱いて難しいことを言ってみたかっただけなのだろうが。
今から建設的な妥協をしながら多様な価値観を身に付けることは難しいと思う。悲劇といえば悲劇なのかも。開き直れといわれても出来るものなら既にやっているだろう。畢竟、答えなんてものは簡単に見つかるものでもないし私のような他人が考えられるものでもない。この人に対しては残念ながら自分が出来ることは何も無い。けれども、この人に頑張ってほしいとは思った。
以上"蛇頭蛇尾"で書き散らしてみました。