はてなキーワード: 知覚とは
http://anond.hatelabo.jp/20090202064637
むしろ私は科学を学ぶ内に創造主としての神を信じてやっても良いような気持ちが生じて来た。
カオスとしてのこの宇宙の構造を生み出す見事な法則を定めた奴は誰だ。
重力定数や光速、各素粒子の質量や電荷その他パラメータを与え、
また宇宙の始まりにおける初期条件を与えたのは誰だ。
だがこの宇宙を支配する法則がどこまで解明されようとも絶対に解らないことが判っている、
それはこの世界への親愛の情を通して増幅され、
そいつは、私を極とした私が知り得る限りの私の球座標世界を r→1/r と裏返したような
知覚の埒外の世界の∞の果てに居る、矮小な私自身の荘厳な虚像にして、
自分が自分らしく生きる最大の方法は、自分の身体を知ること、自分の身体を動かすこと、自分の身体で体験することである。
自分の身体なしに(脳なしに)何かを考えられると、あなたは思うのか? 魂がものを考えるのだとでも?
自分の身体なしに(目をなしに)何かを見られると、あなたは思うのか? 魂がものを見るのだとでも?
以下同様に、身体なくして、何かを聞いたり、味わったりできると、あなたは思うのか? 魂がそれを行うのだとでも言うのか?
あなたは身体の外で思考が行われることがあると思うのか? あなたの表皮の外側の空間で思考が起きているとでも言うのか?
ところで、あなたは心があることを信じるのか? 心は表層である。その人とは、行為である。
脳の前頭葉はブレーキの役割を果たす。社会活動に対するブレーキのはたらき。
脳の扁桃体はアクセルの役割を果たす。社会活動に対するアクセルのはたらき。
中庸はあらゆる事の徳である。前頭葉と扁桃体がほどよく、極端にならない程度で機能していることが望ましい。そのためにはそのための、健全な生活が要求される。偏った生活(室内に閉じこもってばかりいる、ゲームばかりしている)は中庸さを失わせるかも知れない。
あなたは、(身体的機能としての衝動抑制が唯一前頭葉にのみあると仮定した場合)前頭葉のはたらきが弱い甲氏が、我慢強いと言うことがあり得るというのだろうか?
あなたは、扁桃体のはたらきが強い乙氏が、何に対しても白黒をハッキリつけないことがあり得るというのだろうか?
この話においては、それらがあり得ると言うことは、脳はいったい何のはたらきをしているというのか? あり得るのだという人は、脳がなくても人は生きてゆけると思っていると言うことだろうか?
ところで、脳は中枢機関である。
あなたとは、あなたの脳ではない。
あなたとは、あなたの右腕ではない。
あなたとは、あなたの臓器ではない。
あなたとは、あなたの皮膚ではない。
あなたとは、あなたの身体である。あなたの身体とあなたは等号で結ばれる。
あなたは身体である。あなたがあなたであるためには、身体を知らなければならない。
身体とは、肉体と等号では結ばれない。身体は収縮拡大される領域である。
あなたは髪型を変えたとき、あなたではなくなる。あなたは新しいあなたになる。
あなたは服を着替えたとき、あなたではなくなる。あなたは新しいあなたになる。
あなたは装飾品をつけたとき、あなたではなくなる。あなたは新しいあなたになる。
あなたとは、あなたの身体である。あなたの身体が変化したとき、あなたは変わる。新しいあなたになる。
あなたが風邪を引いたとき、あなたはあなたでなくなる。あなたは新しいあなたになる。
あなたが爪を切ったとき、あなたはあなたでなくなる。あなたは新しいあなたになる。
あなたが垢を落としたとき、あなたはあなたでなくなる。あなたは新しいあなたになる。
あなたとは、あなたの身体である。万物は生成、変化、消滅の過程を辿る。万物は時間により変化を余儀なくされる。故に時間と共に身体は変化する。
あなたが睡眠をとったとき、目覚めたときのあなたは以前のあなたではない。あなたは新しいあなたになっている。
あなたとは身体である。あなたがあなたとして生きる最良の方法は、あなたが身体を知ることである。あなたは不連続の点である。
身体を知るためには、体を動かさなくてはならない。あなたは物事をどのように知覚していたのかを、体を動かすことで体験しなくてはならない。あなたはあなたの歩幅がいかほどなのか、頭のどこかで知っているべきである。
身体を知るためには、身体との対話が必要不可欠である。身体と対話するのはあなたの意識である。あなたの意識はあなたではない。しかし、あなたの意識を欠いた身体はあなたであり得る。睡眠中も、あなたはあなたである。新しいあなたに移りゆく、不連続の点である。
あなたはあなたの身体に健康的な活発さを与え、持続しなくてはならない。
あなたは身体である。
あなたの前頭葉は中庸あるブレーキのはたらきを持つべきである。
あなたの前頭葉は中庸あるアクセルのはたらきを持つべきである。
それらは偏ることもある。偏っているとき、それはあなたの身体である。すなわち、偏った身体である。偏ったあなたである。偏ったあなたは一体何ものなのか? 偏っているものは良きものか?
あなたは自転車を持っているか? あなたの自転車は両方のハンドルがついているか? ハンドルが片方しかついていない自転車に乗ったことはあるか? それは良き自転車か? それは偏った自転車である。あなたは偏った自転車を好むか?
あなたは一枚のドアの中央にノブがついていることを見たことがあるか? ドアノブは一枚のドアの端についているものである。偏っていることで役割を果たす。偏っていることで、偏りのないはたらきを持つ。
あなたは身体の正面で重たい荷物を持ったことがあるか? あなたは荷物の重さのために、前に倒れそうになるが、身体を後ろに反らしてこれを支える。全体の偏りをなくすためである。荷物を持っているあなたは、荷物も含めてあなたの身体である、荷物はあなたの一部である、あなたは全体の偏りをなくそうとする。あなたは全体である。
あなたは砂時計を見たことがあるか? 砂時計の砂は下方に偏っていく傾向にある。それは自然のことわりである。自然に従うと言うことは偏りをなくすことである。水槽に食紅を流したときに拡散が起きるように、自然は偏りを好まない。
ところで、偏ったあなたは、良きあなたであり得るだろうか?
あなたは身体的に成熟した大人であろうか? そうであれば、子供に回帰することが必要であろうか? 大人よりも子供の方が良きものであろうか?
万物は流転する。生成、変化、消滅する。あなたは生成点から消滅点へ引かれる不連続の点の集合体である。変化することが自然である。子供が大人になることは自然である。
あなたはあなたをそのまま肯定しなくてはならない。これはあなたを正義とするという意味ではない。
あなたは大人になること、大人であることを肯定しなくてはならない。あなたは確かに子供よりも良きものに近づくことができるとして、思考しなくてはならない。
大人は思考できる。子供よりも高度な思考ができる。大人はその点を賛美せねばならない。
子供は未分化である。大人は分化された存在である。大人はその点を賛美せねばならない。
子供はただ自己を肯定するのみである。大人は思考を持続することで、いっそう身体を良く知ることができる。身体を知ることはあなたを知ることである。あなたはあなたを知らずにあなたを賛美、肯定することはできない。存在し得ないもの、明確でないものの賛美、肯定はただ形而上学的なものに過ぎない。あなたはいっそうより良くあなたを知らねばならない。それこそがあなたの生きる最良の方法である。
あなたは身体である。あなたは全体である。あなたは行為である。
とうとう、福岡伸一の新書『できそこないの男たち』が本になった。
この本は今、すべての男性が読むべき本だと思う。「すべての」と言えば言いすぎであれば、生殖活動を志す人、あるいは性的に発展段階にある中学生、高校生、大学生、大学院生(つまり性交渉の経験を問う)、これから先、女性と交わりたいと考えている人、何にせよ生殖に関わる人、子供を持つ親、そんな人たちは絶対に読むべきだと思う。願わくばこの本がベストセラーになって、男性にとっての女性について、これから誰かが何かを語るときの「プラットフォーム」になってほしいと思う。この論考に賛成するかしないかは別として、福岡の明晰な論理による思考がぎゅっと一冊に詰まったこの本が「プラットフォーム」になれば、必ずやその議論は今よりも実りのあるものとなろう。
福岡伸一という人はトンデモ学者なので(つまり言語学における水村美苗のようなものである)、僕のブログの読者では知らない人(もしくは黙殺している人)もいるかもしれないが、ここ数年、とんでもなく素晴らしい作品を書く人だ。本書は『生物と無生物のあいだ』以来の、福岡作品を愛好する者たちにとっては待望の書き下ろし作品であるが、その期待を遥かに大きく超えた達成となっている。
内容について書きだせば、それこそ、どれだけでも言葉が出てくるのだが、あえて今日はそれはぐっとこらえておくことにする。多くの人がこの本を読み、ネット上に意見・感想があふれるようになったら、再び僕自身の考えを書いてみたいと思う。
一言だけいえば、これから私たちは「女性の世紀」を生きる。女性の社会進出が進んだからとかそういうレベルの話ではない。女性がかつての男性のように、「人類の中心」として人類の繁栄を主導していく「基本性」になる時代を私たちはこれから生きるのだ、と福岡は喝破する。そして、そういう時代の女性以外の性の未来(すなわち男性の未来)、男性の繁栄という観点からの性の意味、性教育の在り方について、本書で思考を続けていく。とにかく思考が明晰だ。しかも小説のように面白い。明晰な文章を読むと、その内容が厳しいものであっても快感が得られるものなのだ、と改めて思った。
少年時代から昆虫に熱中し『生物と無生物のあいだ』でメジャーになった福岡の問題提起は、「たとえば今日、2008年11月7日、男性と同じくらいの能力を持った女性が生を受けたとして、その子が肉体的に成長した将来、果たして男性と交わるでしょうか。自然に女性一人で生きていくのではないですか」ということである。放っておけば男性は、「女性の使い走り」としては生存しても、人類の繁栄を担う「性」としてはその役割を失っていくのではないか。「女性の世紀」とはそういう暴力的な時代なのだと皆が認識し、いま私たちが何をすべきか考えなければならない。
最後に本書の一節を引用しよう。
私が知りたいのは、生殖行為が、なぜあの快感と結びついているのか、ということだ。あの快感は、人間が経験できる他のいかなる快感とも異なる。
(中略)
人はなぜジェットコースターに熱狂するのだろう。それは似ているからだ、と私は思う。ジェットコースターが落下するとき、人間の身体が受け取る感覚。蟻の門渡りあたりから始まり、そのまま尿道と輪精管を突き抜け、身体の中心部に沿ってまっすぐに急上昇してくる感覚。
このとき人間は何を感じているのだろうか。加速度である。重力がぐんぐん私たちを引きずり込む加速度。それを私たちは私たちの身体の深部で受け止める。
(中略)
自然は、加速を感じる知覚、加速度を生物に与えた。進化とは、言葉のほんとうの意味において、生存の連鎖ということである。生殖行為と快感が結びついたのは進化の必然である。そして、きわめてありていにいえば、できそこないの生き物である男たちの唯一の性の報償として、射精感が加速度と結合することが選ばれたのである。
所持がバレて捕まったら大麻取締法によって有罪になるから?
てめーらは何でそう思う?
バカになるから。気持ちよくなるから。知覚が敏感になるから。時間感覚が狂うから。
働く気がなくなったり、資本主義社会や市場経済を相対化しちゃったりするから……
幻覚をみるから?
ん?幻覚って??
良くいえば想像力の爆発。
目を閉じれば、朝青龍の憎たらしい姿かたちを想像することができる。
露鵬、白露山、若ノ鵬の3人がコーカサス地方の岩だらけの高原で、
青すぎる空の下、広い大地で、仲良く大麻を吸っている場面を想像できる。
魁皇、琴光喜、貴ノ花、千代の富士、大好きな力士たちの名取組みを思い出すことができる。
大麻を吸っていようが吸っていまいが、想像力はどこまでも自由だ。
未成年が興味本位で吸ったりしたらダメだけど、分別ある大人が嗜好品として楽しむぐらい別にいいじゃないか!
「世間的に悪いと思われてることを敢えてやるのだから世間的に叩かれて当然」だって?
何だよ、世間って!?
法律の条文?
不良になるなって?
一服して考えてみてよ。
あらゆるものごとがそうであるように、大麻を使用することにも功罪がある
中期以降のビートルズの音楽、そして音楽市場という莫大な市場を生んだという点で、
自分は、功罪ある大麻の、良い影響を評価したい。
ビートルズ5枚目のアルバム、『ヘルプ』は大麻が及ぼした良い影響の一例だ。
この世界に大麻がなければ『ヘルプ』は生まれなかったし、その後の『ラバーソウル』、『レボルバー』
そしてもちろん『サージェントペパーズロンリーハーツクラブバンド』も生まれなかった。
サイケデリックという言葉は、良くも悪くも、「ドラッグと音楽文化との結びつき」からできた言葉だ。
今こそ大麻取締法について考えてみよう
モラルについて、文化について考えてみよう。
精神的な痛みは体の痛みと同じであるというのが解明されつつあるようだけど…。
http://www.mypress.jp/v2_writers/beep/story/?story_id=1754401
この記事では、ヒトという生物種では「心の痛み」が「肉体の痛み」を知覚する脳領域である「anterior cingulate cortex:前帯状皮質」で情報として処理されている、という事が脳写像技術によって明らかになってきている現状が語られています。
「胸が痛む」というのは、当人の思いこみによる表現では無く、「実際の痛み」であり得るものなのだ、と。
私が「死ぬのは怖い」と思うときの死、それは「自分の存在がなくなること」だと思う。
では「存在がなくなること」を死と定義するなら、
”死”の瞬間に存在の消滅を自分で知覚できるか。否、できないだろう。
ということは、私は自分の死を認識できない。
他者にとっては存在するが、私にとって私の”死”は存在しない?
では死を、「自分の存在が知覚できず、身体も維持できずに散逸してしまう状態」とする。
上で考えたように、この状態は私には知覚できない。
知覚できないはずなら、痛くもないし、怖くも悲しくも無いはずだ。
ではなぜ怖いのか。”意識”がなくなるのを恐れるのか
しかし意識は睡眠時や麻酔時になくなってしまう。つまり意識は消えたり現れたりしている。
普段意識がなくなるときは、「この意識が最後の意識である。」とは思わない。
つまり「意識がなくなること」自体は怖くないはずである。
では「自分は死ぬ」と思わず死んでしまった人は、死の恐怖にさいなまれなかったと言えるのか。
自分が死んだ後に変わること、それは「自分の”ある”世界」が「自分の無い世界」になるだけである。
私が死んだことで、特段に世界は変わるはずも無いが、”私が死んだ後の世界は変わらない”とも言い切れない。
私が死んだ1秒後には、地球はなくなっているかもしれない。つまり、私の死んだ後には、私の世界が存在するとは言い切れない。
「私の世界が存在する」と認識できないから、言い切れるはずも無い。
また、言葉が世界を認識する道具と考えるなら、私が使う「私の言葉」は私の存在が無くなれば永遠に失われるので、もう私の世界を
”厳密に”理解する人は存在しないのである。書き残せばある程度伝えることは可能であるが、言葉が”変化する”という本質を持っていること、
言葉に宿る「私だけの言外の意味(コノテーション?)」を考えると、私の世界を理解することはもう誰にもできない。
では、「私の世界」とは何か。それは「私が考える”世界”」であり、「私が生きた『私が考える”世界”』」である。
それは言葉ですべてを言い表すことができない世界である。私達は世界を言葉で分節し、認識すると考える。
つまり、私たちは言葉で思考を行うが、感覚をすべて思考にすることは不可能である。
感覚には、「生きているうちに、思考しない部分」という要素もあると思う。
つまり、私は認識だけでなく、私が世界に対して感じたはずの感覚が永遠に失われることを恐れる。
言葉で言い表せない分、この部分は私にとっては「私だけのもの」のはずである。
じゃあ、おれはこれから伸びそうな技術分野をてけとーに予想する。
これから求められる産業って言ったら、
これ以上ぶっ壊さないように、なおかつ人の活動を持続可能な方向に修正するためのエネルギーや食料生産の技術、
ますます長寿嗜好の先進国の人たちが求める、不老長寿にむけた医療技術、
人の知覚や思考を補助するツールとしてのインターネットや仮想現実を生み出すIT、
人の替わりに働く道具や人を楽しませる道具としてのロボット技術なんかが、
これから必要とされると思われ。
環境や食料、エネルギーなんかの問題で、世間の人がせっぱつまるほど、
これらの産業に従事してる人はきっと高級取りに化ける。
今でいうと、人の切羽詰った問題の解決で飯を食ってる、
ロボットやITは便利だし、楽しいから今よりもさらに需要が拡大する。
そんな風におれは考える。
本当だ。消えないうちにグーグルキャッシュからサルベージしておこう。
パスカル『パンセ』
ライプニッツ『単子論』
ジェイムズ『宗教経験の諸相』
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』
ブーバー『我と汝・対話』
ライル『心の概念』
デュルケム『自殺論』
キャンベル『千の顔をもつ英雄』
ポランニー『大転換』
オルテガ『大衆の反逆』
オング『声の文化と文字の文化』
ポパー『推測と反駁』
フロム『自由からの逃走』
デリダ『グラマトロジーについて』
ペンフィールド『脳と心の正体』
ソンタグ『反解釈』
フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』
ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』
イーグルトン『文学とは何か』
ガダマー『真理と方法』
ダマシオ『生存する脳』
クワイン『ことばと対象』
マッキンタイア『美徳なき時代』
ツリー内主要エントリ
「良くある間違い」とも言う
以後追加予定
いや、死んだら分からないよ。
何か違和感を覚えたので、やっつけで哲学の真似事めいたことをしてみた。哲学の人じゃないので変なところもあるかも。
というわけで、必要であるから存在すると考えるよりも、その逆に、存在がわかっているものは必要とされると考えた方が良いのではないだろうか。
ズレたことが問題なのであって、それを感じ取れるかどうかはこの際些細な問題だと思う。
例えば、お気に入りの画像のピクセルがたった一つ、僅かに情報欠損が起こった(213→212のように)としても、人間には殆ど見分けがつかない。がしかし、その所有者がどれほど深く嘆き悲しむかは想像に難くないところである。同様にして、EACのズレが発覚したときのあの衝撃は来たったわけで、これも同様の大問題なのではないかと思うわけ。つまり、到達時の精密を考慮し、再生時に環境に応じ僅かの調整を加えるべきであるか、出力時の精密を考慮し、そのようにすべきでないのかは、知覚の問題ではなく、魂とでもいうべきものの問題だ。
http://anond.hatelabo.jp/20071101140722
はてラボで独立サービスとして始まった匿名オセロは4週目に突入する。
匿名プレイヤーは、その能力は別として常に勝ちを目指すウィナー、正反対のルーザー、白黒の均衡を取ろうとするバランサー、何も考えてないランダマイザーに大別された。それらが白黒手番を自由に行き来するため先読みが封じられ、指し手が凡手に均質化した結果、各局はほとんどが僅差で終了した。個々の局面を見ればそのプレイヤーのパターンなりに、他のプレイヤーの思考まで取り込んだ妙手は存在した。しかし、不特定多数の匿名であるがゆえ、その意図は推し量ることもできなかった。したがって鑑賞されることも省みられることも無く数多の対局に埋もれていった。プレイヤー達はいつしか考えることを止めた。
だが惰性からなのか、何かしらの繋がりを求める人の性からなのか10週を超えても延々とプレイは続く。そしてマンネリを恐れた開発陣によって、ついにある機能が追加されてしまう。
http://portal.nifty.com/2007/04/25/c/
『盤面拡張』は手番の一つとして用いられ、終局を迎えていない局にはいつでも適用できた。これによりダイナミックな展開が可能となり、匿名オセロはまだ十年は戦えるはずだった。しかし参加者は確かに微増したが、徐々に広がっていく盤面に、プレイヤー達は思考しようとする心を折られた。プレイは半ば無意識に進んでいった。
そして1万5129局目。ある増田が、もはや常人には捕らえきれないほど広大になった盤面の隅に、ある文様を見つける。「Cogito, ergo sum」それはそのように読めた。増田集合知性の創発であった。発見者が公表せずはてな運営に通報したのは慧眼だったといわねばならない。集合無意識によって作り出された盤面知性は、プレイヤーが認識してしまえば胡散霧消してしまう。そのような類の、はかないものだったから。
それがプレイヤーの悪戯などではないことは一番最初に運営による厳重なチェックを受けた。ライフゲームよりも単純なルールの行く先に知性があるなどと誰が想像しえただろう。しかしそれはそこに存在したのだった。はてなが匿名オセロで何かを行っていることを知覚したプレイヤーは運営により注意深く取り除かれ、運営が募集した何も知らないプレイヤーが補充された。
はてな運営と増田集合知性との間の注意深いコンタクトが始まった。コミュニケーションや思考などの活動は勿論盤面の周縁部で行われており、運営が棋譜を精査した結果、and、nand、or等の論理回路局面が確認された。盤面内部は記憶に相当し、中央にいくほど長期記憶であることなどが判明した。盤面知性との共通言語を獲得するまでもう一息だった。
『盤面拡張』機能追加時からプレイヤーに新たなタイプが加わる。彼らは盤面の拡張を封じ局面を終了させることを目的としていた。彼らはエンダーと呼ばれた。広がりすぎてもはや誰にも止められないだろうと思われた1万5129局であったが、ただ一人の天才的エンダーにより最後の一手が打たれてしまう。運営は彼を取り除くべきかどうか何度も検討した。しかし彼もまた一人の無自覚なプレイヤーであり、時として盤面知性の重要な一部を担っていることが明らかであったので結論はそのつど先延ばしにされた。彼が究極的な一手を打ったのは、彼の処遇を巡る何度目かの会議の最中であった。それを知ったid:jkondoは「神よお許しください。彼は自分が何をしたかわからないのです」と叫んだという。
後に、全てを運営により明らかにされた彼は、その類稀なる能力を持って棋譜と盤面を読み解き、人工知能分野にいくつもの大きな波をもたらした。彼を『死者の代弁者』と人は言う。
このことを知ったあるアルファブロガーによる「コックリさんも集合知性を生み出せる」というエントリーがid:NATROMによって迎撃され大炎上することになるのだが、まあそれは別のどうでもいい話である。
バイクで寿司を宅配するバイトを二年弱やっていた。時間の経つのが早くて接客も面白く、稼ぎがいいから長く続けたけれど、苦痛に感じることも少なからずあった。一つは、自分の運転するバイクのエンジンが発する騒音がひどく耳障りだったこと。一つは、厨房で店長のiPodから流れる音楽がひどく耳障りだったこと。これらに比べれば寒風に曝された指先がかじかむことや豪雨で雨合羽の中にまで浸水することなんかは些細で、というより、音を掻き消してくれる雨や風をむしろ好んでいた。
年に一度の長い旅行は、いずれも音から遁れることが第一の目的だった。一昨年の夏、東京から自転車で太平洋沿いに西へ向かい、福岡から南下して鹿児島、さらに沖縄本島へ。最南端の喜屋武岬にたどり着いたとき、軽トラックの屋台がラジカセから大音量の音楽を発しているのをみて死にたくなり、そのあと安宿で一週間ほど寝込んだ。夏休みが明けて大学に戻ると、授業中の教室内は喋り声に充ちていて哀しかった。試しに投書などしてみたけれど改善されないので出席するのを止め、語学の単位を落とした。通学で利用するJRの車内放送に耐えられず、大学近くに安い部屋を借り、一人暮らしの静けさの中で心穏やかに過ごした。
昨年の夏、東京から自転車で日本海沿いに北へ向かい、新潟、青森、札幌を経由して、最北端へ向かった。宗谷岬にたどり着いたとき、記念碑に据えられたスピーカーから演歌がエンドレスで流れていたけれど、その事実を予め知っていたためにさほど落込むことはなく、そのかわりに感動も何もなかった。砂浜に張ったテントの周りで夜半過ぎまで打上げ花火をしている若人たちに何かを訴える気力もなく、逃げるように走り続けていたら北海道を一周してしまい、ぐったりして東京に帰った。夏休みが明けて大学に戻ると、講義中の教室内は変わらず喋り声に充ちていて、試しに投書などしてみたけれど教授曰く「君達は子供じゃないのだから子供にするような注意はしない」とのことで、つまり何も変わらなかったので出席を止め、単位を落とした。大学に通うことが阿呆らしくなって通信教育に切り替えた。
今年の夏、生活と自転車に書いた通り、北極圏を走ってきて、完全な無音の空間に初めて出会った。自分の周囲三キロ以内に自動車が近付いてくると、あ、人が来た、と判るくらいの静けさだった。クロクマの親子に会いたくないけれど会ってしまったとき、彼らは物音一つ立てなかった。走っているとき、または自転車を押して歩いているとき、ふと自分の足音さえ耳障りに思い、足を止めた。足音が止むことによって今まで自分が歩いていたことを知り、砂利を一歩一歩踏みしめて歩く音を聴くことで、再び歩き始めたことを知覚した、と思った。日本でiPodで音楽を聴きながら歩いているときには自分の足音を聴くことはない。音楽なんか要らないと思った。
北緯七十一度の小さな空港で久方ぶりに聴いた音楽はスティービー・ワンダー『太陽のあたる場所』だった。ちょうど十年前に初めて触れた洋楽が彼の歌だったことから、ひどく懐かしい思いに浸り、音楽はあってもいいと思い直した。飛行機を三つ乗り継いで日本に帰ると、危惧していたほどの喧騒はなく、今年こそは旅行後の鬱と無縁で過ごせる、と期待していたんだけどな。
帰国後に始めたバイトの店内で流れる有線放送に耐えられなかった。……音から逃げるに触発されて書き始めたのだけど、続きは後日。
Stevie Wonder "A Place in the Sun" http://jp.youtube.com/watch?v=ExGvrl3t3rc&v3
「情報」というものを「誰か(何か)によって人的・機械的に認知されうるもの」として、その「情報」が存在する一般化された場のようなものが存在する。
(「認知」は人間の知覚だけでなくコンピューターによる電気的な信号も含む)
例えば、場を光学的に変化させたものが映像である。音声的に変化させたものが言葉であり音楽である。電気的に変化させたものが通信でありシナプスでありCPU内部のスイッチングである。といった具合に。
HDDに保存されている、CD-ROMに記録されているあいだは、そのメディアによって情報の認知が保たれていると考えられる。
脳内に保存された情報(記憶)は完全な忘却または脳死によって失われる。
とか、考えてみた。だから何なんだ。