2007-02-24

建設的な妥協

http://anond.hatelabo.jp/20070223172044

この記事を読んで思ったことを、全く世間を知らない学部生が書き散らしてみます。

人は他者と関わりを持たずして生きるのは難しいので、他者との比較は不可避なものだと思う。コンプレックスなんてものは、他者との差異性が生み出すもので。けれども人は、差異性の中で自己を確立出来るもの。そしてその自己確立の過程においては、建設的な妥協というか自分に折り合いを付けることが必要だと思う。

タイトルは、大学で見かけた就活冊子に書かれていた就職支援室長だったか誰かの言葉

私の通う大学には優秀な人が多く、今まで受験という競争を勝ち抜いてきたこともあって自信のある人が多い。そんな大学生にとって就職活動という存在はちょっと厄介な存在である。多様な価値観の中で、自分探しをし、自分にとって適職とは何かを探し、面接で何を言われても就活を頑張る。思うに、就活とは建設的な妥協を促してくれる重要な下地になっている。

さて、何故就活の話を出したかというと、人生には就活のような建設な妥協を促してくれる場面がちょくちょくあると思うからである。

幼少期、父が「人は生まれて一番初めに知覚する限界は、肘の関節が一定方向にしか曲がらないと気付かされる時である。」などとわけのわからないことを言っていたのを記憶しているが、確かに人は己自身の限界を感じながら生活をしている。例えばスポーツだったり、受験だったり、恋愛だったり、就活だったり、仕事だったり。自分自身の力ではどうしようもないもの(往々にして他者か環境なんだけど)の存在を知らしめさせられ、どうにか体の良い言い訳を探す。「やれば出来る」は天才の戯言であり、凡人にはその言葉は当てはまらない。「やっても出来ない事がある」という言葉意味を否応なしに理解させられ、それでもなお自己肯定に拘泥する。その過程において建設的な妥協がなされ、それと共に自我が形成されていくと思うのだ。

話は戻って。

このエントリーを書かれた方は、学業に関してそういった状況を全く与えられずに修士課程まで出たということになる。学業に限って言えば、上記に挙げた受験や日々の学生生活において、他者との比較がなされ、限界を知ることになる。本来ならば、そうなるはずである。

私も大学に入って、世の中にはこんなに凄いヤツがこんなにもたくさんいるのかと感心した。一応、高校時代は頭のいいキャラで通っていたが、大学に入ると下から数えてすぐぐらいの頭。それでも他人は他人だし、わざわざ他人との比較の中にだけ生きる必要は無いと思ってるので、コンプレックスというのを感じたことはあまりない。まあ、大学生活において友人達の聡明さに感心することはしょっちゅうだけれど。

しかしながら、比較対象が全て自分よりも下(何を基準にするかは不明だが)と自身が認識するような存在であった場合、優越感は抱いても劣等感を抱くことは極めて少ないであろうことが容易に想起される。価値基準に多様性を求めない限り(というか、この人は頭の良さという単一の価値基準しか持っていなかったのかも知れないが)、この人は「どうすればまた輝けるのかを」見つけられない気がする。彼の言う「輝く」が「優越感を抱く」を指しているのであればなおさらであろう。

優越感を抱くこと自体には多分、それほど問題は無い。人間関係を阻害するぐらいでなければ、鼻にかけるのもそんなに問題ではないのかも知れない。ただ、個人的に問題だと思うことがひとつある。優越感を抱いた人は、肥大した自我を持ちやすいということだ。かつて自分自身も肥大した自我を抱いたことがある。いや、正確にはまだ抱いてはいるが、それが比較的自分自身の身の丈に合ってきたといった方がよいだろう。兎も角、肥大した自我存在は絶対的である。自分の知覚する世界において、ほぼ万能。一種のナルシシズムといえるのかも知れない。「正直、世界の構造の探求とか、どうでもよかったのだ。 難しいことをやれていれば。」とは、この方が書かれていることだが、他者には理解できないような難しいことをやっている自分が好きだったのだろう。そして、それを賞賛されることでデキる自分という自己認識を作り上げていく。それはそもそも他者との関係性の中から生まれたものであるにもかかわらず、外部環境が変化しても不変なものとして"他者よりも優れた自分という存在"をつくる。その存在と外部環境のギャップに煩悶する。肥大した自我を自ら作り出してしまったが故に、前に進めなくなる事がよくある。

で、結局何が言いたいのかというと。

多分何かを言いたいということはなく。

ただ、能力があっても比較の中でしか生きられない他人のエントリーを見て、ちょっと優越感を抱いて難しいことを言ってみたかっただけなのだろうが。

今から建設的な妥協をしながら多様な価値観を身に付けることは難しいと思う。悲劇といえば悲劇なのかも。開き直れといわれても出来るものなら既にやっているだろう。畢竟、答えなんてものは簡単に見つかるものでもないし私のような他人が考えられるものでもない。この人に対しては残念ながら自分が出来ることは何も無い。けれども、この人に頑張ってほしいとは思った。

以上"蛇頭蛇尾"で書き散らしてみました。

記事への反応 -
  • 「何でこんなことやってるんだろうなあ。」 もう書くことは決まっている雑務の中の雑務をやりながら思った。 窓口に並ぶ老人、それに応対する同僚、それを見て考える。 こいつらは...

    • http://anond.hatelabo.jp/20070223172044 この記事を読んで思ったことを、全く世間を知らない学部生が書き散らしてみます。 人は他者と関わりを持たずして生きるのは難しいので、他者との比較...

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      • http://anond.hatelabo.jp/20070224143002 http://anond.hatelabo.jp/20070224185527  肘が曲がらないことを限界と感じるか、筋肉を使わず物を支えられるからこれどすばらしいものはないと考えるか。 ようは、...

    • 株式投資でもやったら?

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    • 人生の目的が他人基準であるうちは救われないと思うよ。

    • http://anond.hatelabo.jp/20070223172044 いまもプライドを捨て切れてないから、自分はまた輝けるんじゃないかと思うんだよね。 失ったプライドを取り戻したいんだよね。 でも、学部時代と同じ...

    • http://anond.hatelabo.jp/20070223172044 下手に地方国立から東大?院に行くと酷い目に遭う人もいるみたいだけど、東大に学部から行くのはもったいないと思う。理系の場合は。 東大生特有の閉塞...

    • http://anond.hatelabo.jp/20070223172044 自分は東大ではないけど、近藤さんの出身大学で院生をしている。 ストレートで上がったし留年もしてないし、たぶんそこそこ良くできるし、 頭の回転も悪...

    • anond:20070223172044 就職難世代!もったいない!こんな見るからに優秀そうな人間をもっと、科学ジャーナリストやインタープリターとして教育分野に起用する政策をとったら良いのに。あと...

    • http://anond.hatelabo.jp/20070223172044 たぶんこの人が絶望した大学で俺は学んだ可能性が高いのだけれども、 大学はともかく、社会に出て愕然とした。 大学までって、自分と同じ年齢の奴とだ...

    • そのまま素粒子にしがみついていても、もっと深い絶望があったのでは。 研究にしても仕事にしても私生活にしても外界に対する興味がなければつまらないでしょう。 早く大人になれる...

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