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はてなキーワード: 本田由紀とは

2010-10-12

http://anond.hatelabo.jp/20101012171053

社会学者本田由紀が、高校時代にした唯一の反抗がサザエさん立ち読みだって言ってたな

それを思い出した

2010-01-26

就職活動を巡る言説に対する違和感

http://d.hatena.ne.jp/nagano_haru/20100124/1264349181

 全体の論旨の言わんとしていることは、とても痛いほど分かります。昨年、自分就職活動を実際にやってみて体験して同様のことを感じました。また文脈的には、「心理学化する社会」であったり、本田由紀さんが提唱する「ハイパーメリトクラシー」と同一線上に位置づけられると思います。

 しかし、就職活動に限って言うならば、それが現代的にアクチュアルな問題なのか、と問われるといまいちピンとこないところがあるわけです。なぜならば、「就活」に対する多くの論旨は、過去現在就職活動には明らかな断絶があると強調する一方で、現在にばかり着目し、過去には一切目を向けていないからです。

 上のid:nagano_haruさんの論考も例に漏れず、過去就職活動現在就職活動の違いをまるで自明のように取り扱っています。

企業労働者採用するときの「自己PR」をどんどん先鋭化させていくところだ。

……(引用者略)

以前のエントリーシート以前の就活とは決定的に違う。

企業に入って、企業価値観内面化してくのではなく、

企業に入る前から、企業の好む価値観役割期待適応するように、「自己改革」を迫られる。

 id:nagano_haruさんは、エントリーシート発明によって、就職活動自己に与える影響が変化したと主張しています。しかし、この根拠となる部分が明らかにされていないため、果たして本当にそうなのか、という疑問がどうしても残ってしまいます。つまり、歴史がない、通時的な視点の欠如が論旨の前提を脆弱なものにしています。このような歴史の欠如は、議論を極めて内輪的なものにしてしまう恐れがあるのではないでしょうか。

 別にこれはnagano_haruさんに限ったことではなく、就職活動に言及する学者評論家全てに言えることだと思います。彼らがなぜ具体的な資料も根拠もなく、現代的な就活に特有の問題である、といえるのか。そこが全く分かりません。

 私見では、メディアの形式が変化しただけで、恐らく、三菱財閥住友財閥富士電機といった明治大正にかけて一世を風靡した大企業たちは、面接段階で、現代以上に自己の刷り合わせを求めてきたのではないか、と思われます。当時の産業はまだまだ発展途中であり、その成員に家族的な同質性を求めていたこと、当時の大学生は全人口の数パーセントに過ぎないエリートであったことから、横の学歴よりも個人の思想、忠誠心が問題とされたこと、などが考えられます。またこの時期に就職活動本の原点とも言えるハウツー本が発売されたのは、決して偶然ではないでしょう。

 つまり、現代的な問題というよりむしろ、近代以降、職業選択の自由によって開放された労働市場が、開放された個人を取り込むために始まった就職活動に内在している問題系なのではないか、ということです。

 こんなこと書くと、お前が調べて根拠出せよ、と言われてしまいそうなので、時間があるときに昔の就職活動について調べてみます。ただ、個人的に一番問題だと思うのが、現時点で体験している人以外あまり問題として感じられない点があると思います。自分もそうですが、就職活動やっているときは、そのシステムの不条理さに怒りを露にするのですが、いざ内定をもらってしまうと、それまでの苦労は笑い話となり、理不尽さは隠蔽されてしまう。誰しも経験しているにもかかわらず、喉元過ぎると熱さを忘れてしまうところに、この問題の難しさが潜んでいるのではないかと思います。

2007-02-19

[][][][]今日の朝刊の時流自論より

2ちゃん哲学板とかいつぞやはてブでヒットしたニセ科学菊池誠さんのBlogじゃないがそこらへんでよく見かけるフマ?なる人物がプライベートモードに追い込んだらしい本田由紀という方が最近朝日新聞で何かの賞を取ってそこらへんの流れからかその人が時流自論を最近担当している記事を読むことがあるのだけれども今日の記事をザッと独断と偏見引用してみる。

企業の「家族依存」を正せ

まとめるとこんな感じだった((まとめてるか、ちゃんと要約できているかはわからない))

  1. 低収入の若年非正社員が3人に1人に達するほどの規模であるのに何故それが今現在看過されているのか
  2. 批判的な論調では若者が豊かな親世代に依存パラサイト(寄生)しているため。「若者の甘え」という問題なだけだ。
  3. しかし現実ではそうした個人単位家族単位ミクロレベルの説明を超えた規模で進行している。((ここに関してはデータの見方でまだ反論があるであろうところだろうけれども))
  4. 問題は現在では「マクロ社会システム間の関係性」という観点からの把握が必要になっている。
  5. 社会学者の居郷至伸の近刊論文での見解に興味深いものがある。
  6. その居郷氏の見解について本田氏が敷衍した記述が次だ
    • ミクロな説明は、仕事家族の間に「若者の甘え」という心理的要因を介在させることで、問題を若者個々人に帰責してしまう。しかし若者の甘えという無根拠((ここはまた異論があるかもしれないところだ))な要因を除去し、より大局的な見地から見れば、経済システム家族システムとの直接的な((直接的なのかは微妙かも(間社会的に)間接的に、とかじゃないのかな))依存関係という事実が浮かび上がる』
  7. つまり、これほど大量の低賃金労働者が暴動に走りもせずに社会内に存在しえているのは、彼らを支える家族という社会領域の存在、その資産が企業側の依存に対しいまだ有効であるからであり現状で必要な生活保障の責任を各方面が放棄たらしめていることは長期的に持続可能なものでなく非常に脆く暫定的なものである。
  8. それゆえ家族単位などの社会領域、保護領域を持たぬ若者においては現下でも厳しい困窮状態に置かれている。
  9. 日本経済発展を遂げえた時期に労働していた親世代は今後数十年の間にこの社会を去る。その後に残されるのはむき出しの低賃金労働者の巨大な群れではないだろうか
  10. この現今の以上の問題を含む社会システムをどうするのか。「再チャレンジ」政策や「成長力底上げ戦略」は、機会の実質的な拡充を伴わないままに、問題を個人の努力というミクロ次元すり替え結果に終わることが危惧される。
  11. それに対して本田氏が挙げる具体的な政策の例としては『無償ないし生活費保護を伴う職業教育訓練の大幅拡充や、丁寧なカウンセリングと選択可能な複数の就労ルールを整備した確実性の高い就労支援、生活保護対象の基準緩和((生活保護下からの自立を支援する様々な政策))などが求められる。それらの実現のためにも、個々人が苦境に耐えるのではなく協同して怒りの叫びをあげる必要がある。』とのことだ。


こういう見解は初めて見たので興味を持ってこちらにメモとして書き込むことにした。

問題は現在、平均的な共通社会意識が「ミクロ次元」の問題として認識するような社会環境に現状の日本にはあることが挙げられるかもしれないかな、と。

それは個々人が協同する機会が希薄化されているかもしれないことにも関連するだろう、とも思う。つまりインターネット((一例として挙げているだけで複数の現在00年代日本における様々な間人媒体がって話っす。かな))というような副次的生活主体がリアルな生活主体を希薄化させてそしてまた双方が空中分解たまま進行していっている現今の社会環境が、その機会・可能性をますます低下させたまま進んでいっている、のかな、と。

以上、歿。((こんなに引用していいのか(Φ皿Φ)クワ?って今ちょっと不安に思いながらさて外出します図書館とかに。ひきこもりが。))

ていうか今確認画面見たら脚注、使えてないじゃんorz

> anond:20070219094329

マクロにやっぱり見合った職が無いだけなんじゃないかと。

マクロに見合った職があるような経験っていうか教育を受けるマクロなものが無いってのもあるかもね。

ていうか両方じゃろうて。マクロミクロをますます。ミクロマクロをますます。じゃないかな。

いい感じに悪循環生み出してるからその分のマイナス部分を国がどうにかせんと負債としていつか暴落しちゃうぜってことでは。大量粛清としての自殺者の切捨てっていうのとかで(ry。うふっ。

2006-12-20

本を連続して読んだときの相乗効果を考える

城繁幸「若者はなぜ3年で辞めるのか?」+本田由紀内藤朝雄後藤和智「「ニート」って言うな!」

効果:マスコミや、特に年配者に対する不信感や敵意、および社会体制や自身の現状に対する絶望の大幅な増幅

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