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2009-11-09

トンデモ

・なぜ精神科に何年も通っているのに治らない(改善しない)のか

・なぜ「これを飲めば治る」という薬がないのか。にも関わらず投薬を続けさせようとするのか

http://anond.hatelabo.jp/20091109142857

とりあえず「治らない例がある」ことと「治らない」ことは違うわけでな。薬というものは、偽薬よりも治りがよいことが治験証明されてるから承認されてるわけで、つまりは最低限「改善される」ことは科学的に示されてるんだよ。

あーそれと、糖尿病その他の慢性病には「治らない」ものだってあるだろうが、治療無意味かい?

それと、風邪だって「これを飲めば治る」薬なんてないけど、君は風邪薬を飲まないのかい?

それとも単に「憂鬱自分の気持ちを受け止めてくれる存在」が欲しいだけ何じゃないのか?

それなら別に医者じゃなくても宗教論者で十分じゃん。そこにお前らは疑問を持たないのか?

とりあえずそういう素朴すぎる心身二元論はよした方がいい。人間の脳だって結局は有機物なわけで、化学的に影響を受けることは確か。腹が減ると機嫌が悪くなるなんてのはその典型だ。

精神疾患には生理学的な原因があるってのはもうわかってきてるわけでな。それを治そうとするのに薬を使うのは自然。そうだろ?

http://plaza.rakuten.co.jp/kinkou070707/diary/200908260003/

http://kentapb.blog27.fc2.com/blog-entry-1745.html

とりあえずこの辺読んどけ。上の方はソース消滅してるから孫引きですまんが。

医者じゃないから医学的な見知から答えられないが、

専門家でもなく、ぐぐってわかる程度の知識もないのに精神医学全部を否定しようとする君の無謀ぶりには、進化論否定の創造論者もびっくりだろうね。

2009-08-15

http://anond.hatelabo.jp/20090812214941

これって本家英語圏創造論者たちのよく使う恣意的な引用なんだな。というか、直訳ですらなく改変してるし。

2009-08-12

http://anond.hatelabo.jp/20090812214941

グールド自身による(自己の言説の歪曲された利用への)反論(訳は大意)

[T]ransitions are often found in the fossil record. Preserved transitions are not common -- and should not be, according to our understanding of evolution (see next section) but they are not entirely wanting, as creationists often claim. [He then discusses two examples: therapsid intermediaries between reptiles and mammals, and the half-dozen human species - found as of 1981 - that appear in an unbroken temporal sequence of progressively more modern features.]

移行形態化石記録はしばしば発見されています。保存された移行形態は一般的ではありませんが、そしてそれは私たちの断続平行説が正しいのであればそうあるべきですが、まったく欠如している、そう創造論者は主張していますが、そういうわけではありません。

Faced with these facts of evolution and the philosophical bankruptcy of their own position, creationists rely upon distortion and innuendo to buttress their rhetorical claim. If I sound sharp or bitter, indeed I am -- for I have become a major target of these practices.

こういった進化事実と彼ら自身の哲学的立場の破綻に直面して、創造論者は彼らの修辞的な主張を強化するために、歪曲と暗示に頼っています。もし私が辛辣に見えるのならば、実際その通りなのですが、それは私が彼らの実践の主要なターゲットとなっているからです。

I count myself among the evolutionists who argue for a jerky, or episodic, rather than a smoothly gradual, pace of change. In 1972 my colleague Niles Eldredge and I developed the theory of punctuated equilibrium. We argued that two outstanding facts of the fossil record -- geologically "sudden" origin of new species and failure to change thereafter (stasis) -- reflect the predictions of evolutionary theory, not the imperfections of the fossil record. In most theories, small isolated populations are the source of new species, and the process of speciation takes thousands or tens of thousands of years. This amount of time, so long when measured against our lives, is a geological microsecond . . .

私は自分を徐々に漸進的に変化が起きるというよりも、気まぐれで断続的に起きると考える進化論者のひとりであると考えています。

Since we proposed punctuated equilibria to explain trends, it is infuriating to be quoted again and again by creationists -- whether through design or stupidity, I do not know -- as admitting that the fossil record includes no transitional forms. Transitional forms are generally lacking at the species level, but they are abundant between larger groups.

(変化に)波があることを説明するために私たちが断続的平衡を主張して以来、何度も何度も創造論者によってデザインやなにやらを通じて、私が化石記録は移行形態を含まないと認めていると引用されたのは、はらわたの煮えくりかえる思いです。移行形態は一般的に種の水準では欠如していますが、それより大きいグループの間では豊富に存在するのです。

http://www.talkorigins.org/faqs/quotes/mine/part3.html

http://anond.hatelabo.jp/20090812214941

http://blog.goo.ne.jp/premier310/e/1fcfef25834d5f80331f42bfcc6b1c4c

The extreme rarity of transitional forms in the fossil record persists as the trade secret of paleontology. The evolutionary trees that adorn our textbooks have data only at the tips and nodes of their branches; the rest is inference, however reasonable, not the evidence of fossils. Yet Darwin was so wedded to gradualism that he wagered his entire theory on a denial of this literal record.

過渡的形態化石記録には非常にまれであることは古生物学の「業界秘密」であり続けてきた。教科書を飾る進化系統樹には先端と分岐の結節点しかデータがない。どれほどそれが合理的なものであろうと、(過渡的形態の存在は)推論であって、化石の証拠によるものではない。それでもダーウィンは、彼の全理論をこの直接的な記録(過渡的形態の証拠の欠如)を否定することに賭けるほど、熱心に漸進主義を主張した。<()内は私の挿入>

原文はこれか。あと、訳はあんまり自信ないので大意、ということで。

ソースはここ。ちゃんと創造論批判の英語サイトが検証してるみたいだな。

http://www.talkorigins.org/faqs/quotes/mine/part3.html

Quote #3.2のとこね。ざっと斜め読みしたところでは、グールドの断続平行説のからみで、中間形態がすべて存在するというところに疑問を投げているところで、進化論とか、化石の証拠能力に文句をつけているところではない、というところか。くわしいところは誰か訳して。

ちなみに、創造論者によって過渡的形態の欠如は進化論への反証として持ち出されるが、グールドの立場では、種が分化するときは漸進的にではなく急激に変化する、つまり過渡的形態が欠けることがある、ということだから、勿論、進化論とは何の矛盾もしない。くわしいことは断続平行説でぐぐれ。

ついでに、ここにも同じ発言への言及があるな。

http://www.allaboutthejourney.org/japanese/fossil-record.htm

IDの大御所の人の訳を見つけた。

 化石記録における移行形態が極度にまれである事実は、古生物学企業秘密(trade secret)になっている。我々の教科書を飾っている進化の樹(系統樹)は、その枝の先端と節においてのみデータが存在する。残りは、いかにもっともらしくても、推測であって化石の証拠によるものではない。

http://www.dcsociety.org/id/ningen_genri/043.html

2009-03-27

気象理論疑似科学である

http://anond.hatelabo.jp/20090326205141

20世紀科学哲学者、カール・ポパーに従えば。

彼は科学疑似科学の境界を「反証可能性」に求めた。ある理論科学であると認められるためには、それが「反証可能」でなければならない、すなわち、

1:その理論に基づいてある予測をたてることができ、

2:かつそれを現実世界経験と照らし合わせて検証することができなければならない。

ポパー疑似科学の例としてフロイト精神分析論を好んで取り上げた。例えば、ある男が子供を川に殺意を持って突き落とそうとしており、もう一人の男はその身に代えても子供を助けようとしているとする。フロイト論者は、この二人の行動を、同じくらい簡単に説明することができる。一人は抑圧されており、もう一人は昇華を遂げたのだ、と。フロイト論者は、どんな行動に対しても、それに対する説明を編み出すことができるわけだ。ポパーはこれはおかしいのではないかと考えた。何でも説明できてしまう理論は、むしろ理論と呼ぶに値しないのではないかと。

気象理論もこれに似たところがある。どんな天気でも、その原因は気圧変動で説明できるとされる。昨日雨が降ったのは、日射により大気が膨張し、上昇気流が起きたからだ、という。気象理論はどんな天気に対しても、理由を探し出して気象理論的な説明を編み出すことができる。

フロイト理論と気象理論が違うのは、気象理論は理由を気象理論の外に求める点だ。気象理論自己完結した理論ではない。「日射により大気が膨張し、上昇気流が起きるから」であるという主張は、気象理論それ自体からは導き出せない。その主張を入れ替えれば、気象理論はどんな天気にも適用することができる(もちろん主張それ自体がある程度の説得力を持っている必要はあるだろうけれど)。

気象理論反証可能性を持つのだろうか?そもそも自己完結していない気象理論科学理論と呼んでよいのだろうか?それとも単に僕の中での言葉定義がおかしいのだろうか?


メカニズムについての理論と、個々の事象への対応を混乱するとこうなるのかな。天気予報が外れたからといって、気象理論モデルが否定されるわけではないというところを、もうちょっと考えてみたらいいかもね。

http://members.jcom.home.ne.jp/natrom/index.html

Q.進化論は反証不可能なので科学ではないのでは?

A.例えば先カンブリア紀の地層から大量の石器が発見されれば進化論に対する強力な反証になります。進化論科学ではないと思いたいために「進化論は反証不可能である」と主張する創造論者もいますが、原理的に反証不可能であることと、反証の証拠が見つからないことを混同すべきではありません。進化論原理的に反証可能ですが、現在のところ反証されていません。[2000.4.11]

2008-12-27

http://anond.hatelabo.jp/20081227150424

一応突っ込んどくが天動説創造論のようなとんでもではない。

2008-09-02

ダウン症云々は別にどうでもいいんだが

http://anond.hatelabo.jp/20080831203507

wikipedia情報で悪いけど

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%B3

サラ・ペイリン

普通にヤバいだろこいつ。

2006-12-29

妄想科学日報の人は何が人をニセ科学に向かわせるのかを全然分かってないように思う。

http://d.hatena.ne.jp/DocSeri/20061228/1167272368

以下上記エントリから引用

かつて川端裕人は竜とわれらの時代の中で、古生物学の権威でありながら創造論に傾倒するアメリカ人学者を描いた。人口の8割がキリスト教徒であり(日本人の家に仏壇や神棚があったり初詣葬儀で寺社仏閣を訪れるレヴェルよりも広く深く)信仰が生活に浸透している欧米では科学者と雖も信仰と無縁ではない。

科学者信仰を持つことを否定するつもりはないが、同時にそれが強固なイデオロギーであることも常に意識せねばならない。判断基準を神仏に委ねた瞬間、それは科学ではないものとなる。

この点では、普段の宗教的行為と信仰意識を切り離して扱うことに長けた日本人というのは、実は一番科学向きなのではないかという気がする-----その割には科学離れが進んでしまっているのだが。

引用終り


この人は一体何が人をニセ科学に向かわせるのかを全く分かってないように思う。(普段読んでないので何か見落としている文脈があったら申し訳ない。と先に謝っておく)

「目には見えない(観測できない)けれど、あたかも何かがそこにあるかのように感じる」というのが宗教の奥底にある。そして、上の例に出てくるキリスト教というのは、キリストの肖像を信仰の場に持ち込むか持ち込まないかで争う例から分かるように、その、一体何を信じるかということに対して、血で血を洗うような抗争を起こしたりもするけれど、その結果それを非常に明確に峻別する宗教だ。(異端と正統)

ニセ科学というのは本来科学で計ったり、観測できないことを、あたかも科学的に計量できるかのようにふるまうことだと個人的には理解している。

そして、ニセ科学は、本来なら(観測できないんだけれど)「ある」んですよ、と主張するだけの、信じるか信じないかで済む問題を、科学的に裏づけされている(勿論されてない)から「正しい」「信じるべき」なんだ、という押し付けがましいことをする。上に書いたキリスト教はそれをやらないで、観測できる科学と、宗教は別々のものですよ、という方向にいった。これは評価できる。(キリスト教聖書に出てくる事柄を科学的な側面から裏付けられないか、という視点で科学を発達させてきたという歴史がある。)

つまり、目には見えないけれど信じている対象を具体的に了解する、何に対して信仰するかを明確に決める、ということはニセ科学を見破る手だてにもなりうるし、その逆もまた言えるということだ。

「観測できることじゃないけれど、そこには確かなことがあるんだよ」というのは凄い安心する。だからこそ、その対象はできるだけ明確でないと危険である。日本人信仰を明確に規定しないことの善悪は問えない。けれど、そのことが「科学向き」とは到底思えない。信仰の対象が「科学」となってしまうことがあるからだし、そのことこそがニセ科学への危惧だと思う。

(30日午前四時四十九分に日本語が不自由だった部分を修正しました。)

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