と最近思う。
本当の意味で文章が上手いというのは、論理構成がしっかりしているとかてにをはが正しいとかそういう細かくて基本的な事を前提として、更に文に情を含ませられる事だと私は思っている。
ただ単に上手い/分かりやすい文章は無味であって、そこに書き手の意思や情が乗るから味が出る。書き手の思いがある文章は人の心を動かす。文章の上手さはある種危険な技術でもある。人を騙せるし、騙した人を何かしらの行動や思想へ駆り立てるだけのパワーがある。
そういう意味で言うと、頭が良くて文章が上手い人は無敵だ。頭が良いというだけで隙が少ないのに、加えて文章も上手い。
頭が良くて文章が上手い人は、たとえると、情熱/思いという林檎のコンポートを、ロジックという厳重なパイ生地に包み込むことができる人だ。サクサク生地にナイフを忍ばせ、中からとろりとしたリンゴが出てきたら、それだけでうっとりするだろう。
でもそのリンゴが実は腐っていたら、果たして気づけるだろうか。少し鼻を効かせれば、或いは実際に食べてみれば分かることなのだが、ただその如何にも美味しそうなリンゴやパイを見て、うっとりして終わってしまう、そして「このアップルパイは素敵だ」とシェアする、そんな事が起こっているのではないかという気がする。
私がこの事を感じたのは、東畑◯人さんと藤原◯史さんの本を読んだことから来ている。二人ともすごく文章が上手いのだが、どちらもリンゴが傷んでいる。
わかる 中学生くらいの頃、痛い中学生の俺は三島由紀夫にどハマりして思想に被れたりしたんだけど、高校生になってから「文章が死ぬほど上手いだけで言ってる内容は(旧)Twitterの論...
だけど10年以上同じことをやっているよね