今回の広告は若者がターゲットということだったが、若者以外が見ないわけではない。誰かが不快になる表現はなるべくあってはいけない。
違うのだ。
誰かが不快になる表現なんて、世の中にはあふれすぎているんだ。
自分の例を挙げようか。
大滝詠一の『君は天然色』をカバーしている女性歌手の曲がCFで流れているけれど、
あれ、不快なのよ。下手くそだし。バックの演奏も含めて、「そうじゃねえ」って毎回思っているのよ。
ただ、それはあくまで個人的なところだし、その15秒とか30秒とかを我慢すればいいだけなの。
で、我慢しているの。
で、それでいいじゃんって。
でも、それは放っておけばいいのよ。
だって、自分あてに表現しているわけじゃないことを分かっているから。
お前が我慢する/したいこと と 他人が我慢しなければいけないこと には何も関係がないけど大丈夫?
君が我慢したくないことは 社会的に優先される要素ではないということ
知るかよ 言ってろ
えっ? 元々 「公共広告というのは基本的にすべての人を対象としたものだ。今回の広告は若者がターゲットということだったが」 と、この1行で矛盾しているんだが。 その上で、 「誰...
ん? それは一般論だよね。 できればあなた自身はどうするか、主語を「自分」にして語ってくれると嬉しい。
いや、どちらにせよ我慢しなきゃ良いじゃん。 それとも「その気になれば我慢できる程度の不快感」と「耐え難い不快感」を同一視したい理由でもあるの?