数も数えられないのかよ、そう言って私たちは笑う。では私たちはいくらから「たくさん」を認識するのだろう。100?1000?10000?
数えられなくなる理由。豆粒のように取るに足らないものだから数えるのを軽んじたり、ウニ粒のように数があって当たり前のものだから考えることを放棄したり、ヒトのようにあまりにも怖い存在だから直視できなくなったり。
ヒト。
私の家に殺気に満ちた知り合いがひとりでやって来て「今から人を殺しに行くからお前も来い」と言ったら私はどうするだろう。
ふたりがやって来て「今から人を殺しに行くからお前も来い」と言ったら。それが3人だったら。5人10人30人だったら。
きっと、どこかの値で数えるのをやめてしまうだろう。考えるのをやめてしまうだろう。断ったら殺されるほどの数がある。こんなにたくさんの奴らを向こうに回せやしないと思わせる数がある。倫理や法はそのとき私の中からこぼれ落ちる。
私たちは心の中に普段は気付かない閾値を持っているのだ。暴走が止められない数を知っているのだ。そしてその「たくさん」に気付くときはもう手遅れなのだ。
昨日人を殺した……だから後は何人殺しても同じだ!
誰かの親かもしれない人を良く殺せるね 俺は質問したい 親が死んだらどうするのって
別に人は死ぬし、どうもしなくね? 親だけ特別扱いするとか偏狭極まりないな。
キモい
自分で言ってるじゃん 人間は自己非自己ビットとオプションビットで3までしか数えられないよ 数の大小比較機能ないし
体育館使ってでも数えるぞパンティー
体育館使ってでも数えるぞパンティーとは何事だパンティー!体育館は体育をする施設であって、パンティーを並べて陳列して数える施設ではないパンティー!語尾にパンティーは意味...
パンティーって体育館を数える施設じゃなかったのか!?
パンティーで体育館を数えるのかパンティー?どんな文化圏の思想だパンティー!!もう意味が分からないパンティー!!!いい加減にしなさいパンティー!!!