知っての通り、日本の人間はうんことしっこを「大便」と「小便」で呼び分けることができる。
この場合、「便」がさすのは人間の排泄物の総称ということになろうから、まさに「大」と「小」の部分にうんことしっこを区別する意味成分が含まれているということになる。
しかし、考えてもみればおかしな話である。大便は何が「大」で、対して小便は何が「小」なのであろうか?
大をうんこ、小をしっことするならば、すくなくとも「大」には「固形である」という意味が、「小」には「液体である」という意味が含まれていなくてはならない。しかし、そのような日本語の用例は他に類を見ない。探してないけど多分ない。
「大便」と呼ばれるものにも下痢便、液状便は含まれるから、必ずしも「固形である」とは言えないのではないか、という反論が考えられる。しかし、それらは一般的な「大便」に対して、特に区別される必要があるために「下痢便」「液状便」などと呼ばれるのであるから、正常な状態の大便に対する認識はやはり「固形」であるように思われる。
便を大小で区別するやり方は、人間の素朴な大小の感覚を反映しているとも受け取り難い。いったい小便に対して大便は何が「大きい」のだろうか?片方は固体であり、片方は液体である。感覚的には大小を比べるべくもない。では量の多寡だろうか?それもその時々でまちまちである。少量の大便と膀胱にいっぱいの小便を排泄することもあるだろう。唯一、それらしいことが言えるとすれば、排泄にかかる労力の大小だろうか?
果たして、この「大」と「小」は、一体どこから来たのだろうか。そしてどこへ行くのだろうか?洗浄水にぷかぷかと浮きながら、わたしは考える。しかし、やがては沢山の水がやってきて、すべてはどうでもよくなるのである。