奴隷の鎖自慢って表現は社畜を批判しているものなのだろう。実際、サービス残業を競い合っているような連中はいるだろうし、確かに彼らは現代の奴隷と言えるだろう。
しかし、この鎖自慢の話は、ある種のニートにも適応できそうだ。働かずして少なからず稼ぎのあるものはともかく、親の財布という鎖から自由になれずに、自由に使える財布をもつ労働者を嘲笑してるという意味において。
驚いた事に自分の足を繋いでいる親の財布の自慢をお互いに始める。
どっちの親の年収のほうが高いのか資産はいくらあるのか、などと。
そして親の財布に縛られていない自由人を嘲笑さえする。
だがニート達を繋いでいるのは実は同じたった1つの親の財布に過ぎない。
現代のニートは、自ら進んでニートの衣服を着、首に屈辱のヒモを巻き付ける。
そして、何より驚くべきことに、現代のニートは、自らがニートであることに気付いてすらいない。
いや、ニートは存在が悪だ。駆逐されねばならん。
逆だ。供給過多な現状では確実に消費が生産を上回るニートは世の中にとって最も貢献している。
自分より年下の奴にやたら俺の親は社長だぜって自慢するニートがいたけどそういう事か。
無理がありすぎる そもそも「奴隷の鎖自慢」の話は何がおもしろいかって言うと 「鎖」という自分を苦しめているもの、 抵抗して排除した方がいいものに対して、 抵抗を諦めて積極的...