その上でだ。
てめえが糞でどうしようもないことだけはよく分かった。
どうせ、下だけ見て生きてんだろ。
さみしいなあ。
友達?
妄想じゃねえのか?
てめえのような人間を友達なんて思うやつがいるのかね。
いたとしても、同じようなお仲間なんでしょう。
かなしい人生だねぇ。
まさしく、糞だめだねぇ。
人にはそれぞれ金を稼がなきゃいけない理由があるんだよ。
その仕事が、良かろうが、悪かろうが関係なくだ。
このどこまでもずうずうしく貪欲な老人共を何とかできない限り、
どこまでもずうずうしく貪欲な老人共を何とかすればいいってだけの話じゃないのかな。
格差社会というのは、利権を持つ層がどんどん減っていくし、日本は一応民主主義国家の体をなしているわけだから、その利権を崩せる可能性は全然あるんじゃなかろうか。
そこで何が必要かというと、合理的な選択ができる材料を揃えることだろうね。
http://anond.hatelabo.jp/20100304162125
仲間発見。
で、俺はそろそろ半年経って収入のなさにがくぶるし始めたんだけど、
あなたは日銭をどうやって稼ぐ予定?
また働いて精神ぼろぼろにするしかないのかなあ。
一通り読んだ。
この文章をまとめる。
「運がよくて、コミュニケーション能力があったら、恋愛はできるし、長く続く」
あったりめーじゃねーかwww。
言われなくてもわかってるよwww。
当たり前のことを小難しく言ってどうすんの?
意味ないから。
白菜のスープにとろみをつけようと思ったら、かなり濃いめにする必要があるってことだ。
つまり、水溶き片栗粉は多めにしろってこった。
なぜかって?
白菜から水が出て、とろみがなくなるからだよ。
わかったか。
コノヤロウ。
http://anond.hatelabo.jp/20100304130510
↑の一連の流れを見ていて思ったこと。
日本人には「閉鎖的な組織を作りやすい」「現場での帳尻合わせが得意」という特徴がある。
ゆえに、間違った考え方や手法が定着してしまったり、あるいはかつて正しかったもの状況に適合しなくなって、
教育や選別を通じた「間違いの拡大再生産」が始まってしまうとドツボにはまる。
外部からの意見は聞かないし、状況が致命的になるまで末端の努力でカバーしてしまうからだ。
そして末端の努力が追いつかなくなったときには、もう誰にも手に負えなくなっている。
誰かと恋愛関係になるための条件とは何か。そして、その誰かと恋愛関係を続けていく条件とは何か。まず、関係を長く続けていくために必要な条件を検討する。思うに、恋愛関係が続く条件とは、相手が何を必要としているか、そして自分は何を提供できるか、その組み合わせであって、それがうまくかみ合うのであれば関係は長く継続するものとなる。
例えば共依存である。暴力をふるう彼氏。その彼氏について行く彼女。暴力は非常に激しいものであるが、暴力をふるい終わった後には優しくしてくれるから許してしまう、などというパターン。こんなことが本当にあるというのは信じがたいが、確かに存在する。だめな彼氏だから、自分がいないとだめなんだと思うことで、自分の存在意義を確認できる。これがこの彼女が彼氏から与えてもらっていることだ。かの彼女には承認が必要なのであり、彼氏はそれを与えている。だから関係が長く続いていくことになる。ここでは、彼氏の暴力というのはその媒介物となっているのである。
このように、関係性が続く条件は、「求める」と「与える」のマッチングなのであって、人格的に優れたもの同士であるのかなどといったこととはあまり関係がない。
次に、誰かと恋愛関係を築くために必要な条件とは何かを検討する。ここでもやはり人格的に優れていることとか、そういう条件があるというようには思えない。人格的成熟なんかが必要なのであれば、高校生でも恋愛ができるという現状を説明できないからである。
まず、恋愛関係が成立するとしてどのようなプロセスをたどって恋愛関係は成立するのであろうか。これは次のように分類できる。
1.対面する(初対面)
4.互いに好意を抱く
5.告白やそれにたぐいする契約行為のようなものが交わされ、つきあいが始まる
ここで、まず1については偶然に左右されるものである。恣意的に誰かと「偶然に会う」ことは不可能なのであって、いかに「出会い」を作ろうと努力したからといってやがてつきあうこととなる誰かと恣意的に出会うことはできない。偶然に左右されるという事実は動かせない。
次に2であるが、これは互いの意志に基づく行為である。ここで必要となるのは単純にコミュニケーション能力である。
3は、2が終わった時点で、お互いに興味を持つか、あるいは日常的に繰り返し顔を合わす環境にあるのであれば、自然な流れで情報交換が行われる。そうなるかどうかは偶然に左右されるという要素も強い。また、ここでもコミュニケーション能力は問題になると言える。
3から、4及び5への流れは相性の問題である。これは先ほど検討した、長期的に関係性が続くための条件に類似した問題となる。ただし、この時点ではお互いを深く知っていないので、潜在的な「求める」と「与える」のマッチまたはミスマッチに気づくことがない。先ほど例に挙げた暴力を媒介とする共依存関係などはこの時点では想定されないはずである。相手が暴力をふるうということがこの時点でわかっていればあえてつきあおうとは思わないはずだからである。この時点ではもっと単純な、顕在的な形での「求める」と「与える」のマッチングが試される。また、それに加えて、一緒にいて居心地がいいこと。吉本隆明が「双子のよう」と表現した自然な感じとも言えようか、そういったものも重要な要素となる。わかりやすい具体例を挙げれば、自分は勉強が苦手で、相手が勉強を教えてくれる。また、自分はテニスが得意で、相手にテニスを指導してあげられる。そしてなおかつ、一緒にいて居心地がいい。だからつきあう、といった具合である。
再び1に戻って検討する。1は偶然に左右されるが、偶然とは確率の問題であるのであって、最終的な目的を果たすためにはトライする回数を増やすしかない。また、それだけで解決する問題である。
2は偶然という要素とコミュニケーション能力の問題という要素との組み合わせであった。偶然という要素についての考え方は1と同じ。あとはコミュニケーション能力。これは訓練を積み重ねることで上がっていくものである。もともと持っている能力というのは個人差があるが、誰でも自分の能力を上昇させることはできるのである。
3は主にコミュニケーション能力の問題であった。というわけでもうこの話はよかろう。
問題は3から、4及び5への流れなのである。先ほどは「相性の問題」であると簡単に流したが、この「相性」とは何なのであるか。それが大きな問題である。多くの人間はここで悩んでいる。コミュニケーション能力の問題とは違い、直線的に能力が上昇して成功に近づくというようなものではないので、どのようにこの問題を解決すべきなのかがなかなか見えないからだ。
先ほど私は、ここでは顕在的な「求める」と「与える」のマッチングと一緒にいるときの居心地の良さが試されると書いた。まずは前者について。「求める」のは多くの人にとってそれほど難しいことではない。人間として生まれ持っている欲求というものがあるのだし、好奇心というのは本来尽きることがない。何でもできる人間などいないのだから、「できるようになりたい」という気持ちは自然にわいてくるはずのものだ。では「与える」はどうだろう。これはいろんな経験を積み、スキルを身につけることにより、与えることができるものは多くなっていく。だから一般的に年齢が上がれば上がるほど有利になるものであると言える。ただ、与えうるものを持っているだけでは十分ではないので注意が必要である。つまり、相手が求めるものを見抜き、それを与えるということが行われなければならないのである。ここで必要となってくるものはやはりコミュニケーション能力である。
では後者の一緒にいるときの居心地の良さというもの。これは偶然に左右されるというほかない。まるで相手と双子であるかのような、自然な感じを抱くかどうか。それは理屈ではないだろう。恋愛を考える上ではここがもっとも本質的な部分なのであろうが、ここがもっとも「論じる」にふさわしくない部分である。だがこれをあえて「論じる」ということを別の機会に是非やってみたいとも思う。
偶然にある人と出会い、コミュニケーション能力などといった能力も関係はするものの、偶然にその相手と親しくなり、おつきあいをすることとなる。つまり、よきパートナーとの出会いというものは、偶然に始まり、偶然に終わるものなのだ。
この記事が解りにくい&どうでもよすぎだからまともなレスがつかねーんだろ。ぶっちゃけつまらんよ
正直オタ側の俺から見ても区別ついてる、ついてないの言葉遊びなんてどっちでもいいし、
区別ついてるに決まってるじゃんとしかいいようがないし
そんなの当たり前過ぎで盛り上がれる要素がない。
元増田は
え?俺発見しちゃったw俺マリア様とかうまいこといってね?みたいな感じがすげーーープンプン臭ってくるし、
んで自分の考えにあったレスが付かないからイラついてるみたいだけど、
正直これは伸びない、だって興味をそそられないんだもんw
俺がいくつか試したときは libxml2 が最速だった
音楽家が悪い。
音楽家がカスラックと契約するのが悪い。音楽家から相手にされなくなれば、カスラックなんて自然に消えてなくなる。
なんで音楽家がカスラックと契約するかと言えば、ズバリ楽をしたいからだ。「なんだかんだで楽なんですよ、JASRACに頼むと。」とどこかのミュージシャンが言っていたな。本音だと思う。
自分らは音楽を作ることだけしか考えていない・考えられない・考えたくないから、流通や管理を他人任せにしてきた。任せた先がまともだったらそれでも良いのだが、残念ながらレコード会社もカスラックも糞ばかりだったのは皆さん知っての通りだ。
音楽家がそこまで考えの至らないバカで怠け者だから、自分たちは利益をピンハネされ、消費者は不利益を被り、文化は発展しない。最悪だ。
続く。
「どうしてそんな事を言うの?」
「常識だからです」
「そんな可哀相な事できない」
「捨てるのは可哀相じゃないんですか?」
「だって誰も貰ってくれないし」
「保健所なら貰ってくれますよ」
「・・・あんた頭おかしいでしょ? 動物を虐めて喜ぶタイプ?」
「そんな事ないですけど・・・」
「私はね、この子と長い間ずっと暮らしてきたの」
「はぁ」
「この子には強く生きていてほしいの・・・」
「でも捨てるんですよね」
「うーん・・・それじゃ僕にその猫をくれませんか?」
「は? 飼うの?」
「はい」
その後いくつかの問答があって、その猫を貰い受ける事になりました。
猫の種類はよく分かりませんが、全体が茶色い、黒い瞳が可愛らしいメスの猫でした。
女性が引っ越した後、僕はすぐに猫を保健所につれていきました。
おしまい☆
どっちかというと、これまで男は人間として扱われてきたけど女はモノとして扱われてきたのがデフォルトで、そういう状況を改善しようということで女が人間扱いを求めて人間扱いされるようになってきたら、モノとしての女を求めていた男がそれに適応できなくなって本当の「モノ」に走ったということなのではないか。
逆がないのは元から女は男を人間として扱って求めてきて、その状況は変わらんからだよ。
http://www.raywenderlich.com/553/how-to-chose-the-best-xml-parser-for-your-iphone-project
まじで!?libxmlより速いライブラリがあることも驚き。でもAndroidでも作りたいから、libxmlを使うけどね。
お料理しますか?
塩を少々っていいません?
それって、塩10gとかってgでしていしてよって初心者は思うらしいです。でもできない。
理由は簡単で、塩の種類によって味が違うから、10gといっても同じ味にならない。
その他の味噌や醤油に含まれる塩分によっても量が異なるから10gといっても同じにならない。
そうするとどうするか?少々とか適量って書いて、料理人に味見をしながら調整してねって言うしかない。
それと同じ。
言われた事というのは、そのケースでしか通用しない。A社さんのAさんにはその発注で通るが、B社さんには通らないし、同じA社さんでもBさんには通らないという、相手や環境によって異なる。
あと、納期は通常2週間と言われているが、緊急で1週間で納めさせなきゃいけない!とか。理由によって異なるケースもある。
つまり、仕事というのは、頼まれたこと以外に環境要因で色々と条件が違う。だから、こうしろという定型はない。だから教えられない。
教えられるのは、おかしいな?と思ったときにどういう事から調査して自分で回答を見つけたらよいか?という
解き方を知らない問題に出会ったときの、対処方法だけ。その対処方法というのは、解き方を知らないときのやりかただから、経験者は解き方そのものを知っていても教えてはいけない。
がんばって、解き方を、教わる人間が自分で見つけないといけない。
経験者は、教わる方が、自分で答えを見つけられるようにリードしたり、ヒントを言ったりするしかない。
だから、そういう教え方になる。
教えているのは、『解き方』じゃなくて、『解き方の発見方法』。自立つするための道。
簡単な問題でこれをやっておかないと、難しい問題で教える方もわからないときに、どうにもならなくなる。
最近の学校教育とくに塾教育の弊害として言われているけど、解き方を教えてもらって、効率的に解くという事になれすぎているせいで、そもそも新しい案件で解き方を誰も知らない問題とか、今までの問題に似ているけど違う問題に出会ったときに対処できない。
そういう弊害がある。
職人仕事というのは、技術革新の仕事でもあって、昨日よりも明日は1歩技術を進歩させるというのが仕事だから、まいにち、新しい問題。だから、答えを教えるというのは、一番最悪の、ロボットを育てるような教え方。それだけは、職人はできない。
大切なのは、人が考えること。考える人とは地獄の門の上にすわるようなもの。苦しくて辛いけど、それは考えていると言うこと、そうい工夫をしていると言うこと。それが職人になるということ。この教え方は職人の道を進む人への最大の優しさ。