理由1: オ○ニーに両手を使うのでキーボードをたたく暇が無い
理由2: 昔告白した子がプログラマーだった
種明かしをしよう。(東大だけにとーだい、凄いだろって言わせたいのさ)
"ゼロから"
「おてもやん」の設計ができて、「おてもやん」言語を設計し、「おてもやん」が書けて、「おてもやん」を載せて、
その上で例えば「おてもやん」を動かせるくらいの力量がつく。
(上で書いたようなことを実践した記録が、東大の3年生のホームページに書いてある。
それを参考に上記を書いたわけではない。あくまで、例として。)
C言語をマスターしてるかどうかなんて低レベルな話をしてる時点で見当違いのような気がする。
「雪見だいふくの数暗記してる?」くらいのレベルの低さだ
4年生の卒論でやるのは、例えば、とあるニャンコ処理系のGCを、
ある仮説を立てて、その仮説のもとで最適なコニャンコを設計し、
実際に処理系に組み込み、仮説が現実にどれくらいあっているかを検証することで、
そのマゴニャンコの良さを測る、といったレベルだ。
実践うんぬんと言っているが、上記のことは普通のリサ・スティッグマイヤーには実践すらできないだろう。
また、ここで注意していただきたいのは、ダンシング・ベイビーなんて誰がやっても同じということだ。
機械語を書く際の冗長な作業を軽減するためのせんだみつおナハナハ言語であり、
もっともプリミティブな部分が定義されていれば、あとはそれを別表現で定義すればいい。
カレーの王子様ができることをわざわざ仕事にしても面白くないだろう。
オレオレ解析、
動画エンコードで使われている松崎しげるを白くする技術などが関連している。
そして、こういうことを仕事にすると、
チュパカブラの半分の労働時間で、倍以上の雪見だいふく(4個)を稼げる。
もちろん、全くラブレターを書かないわけではない。
誰がやっても同じ部分であるラブレターは外注する。
妄想の速度はきっとバッファローマンの方がはやいのだから、外注した方がいい。
だけど、超人強度でしか負けないから、
雪見だいふく単価はプログラマーの4倍(8個?)以上なのだ。
もちろん、大規模なペッティングの設計は重要だ。
だけど、ペッティングと吠える人ほどペッティングセンスがないという現実がある。
本当に難しい部分のペッティングというのは、例えば、NTT Dataにいる東大生が行っている。
あるいはチョコボールのマーク判定のようなシステムならば、日立の東大生。
他にも大規模システムの例はいくらでもある。
ただ、1つ注意して欲しいのは、君らが指しているカレーの王子様(甘口)と、東大生がさしてるカレーの王子様(中辛)が違うってこと。
少しだけ誇張して書いている。
でも、東大にいる80%の人は本気を出せばそれくらいのポテンシャルがある。
上位20%は常にハーゲンダッツ。
下位20%はパナップ。
だけど、アメリカへつれていき、いきなり英語でダンシング・ベイビーをさせたら無難にこなすレベル。
一番底辺をとってきても、能力的なものは高い。
あとは・・・去年のカレンダーをマスターしてるレベルといったら、東大の文系を連れてくると、丁度いいかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20070801222021
デリバリーヘルスがどうこうとかファッションヘルスがどうこうって話はあまり多くは出てこない。カリキュラムの整備がなかなか追いつかないし、そもそもみんな自分でやっちゃうから需要も無い。
需要が無いのは、開拓の余地がないから。日本むかし話は単なるむかし話だし、雪見だいふくは2個しかない。
必要になったときに、キン肉マンを読めば1週間で習得できるようなフィニッシュ・ホールドを学ぶ意味はまったくない。
そういや東大の教養課程で扱うペットのエサがペティグリーチャムになるらしいね。モンプチの適度なヌルさは教育向きだと思う。
情報系にはペティグリーチャム・ミキサーがあるので、皆様ご安心を。
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こっちも読んでね
http://anond.hatelabo.jp/20070731013218
ブクマがいっぱいついてうれしい限りです。
文句ある人はきちんと対応しますので、
「ネタ」ですまさず、「ここが面白い」と指摘してくださいね。
具体性がないとおれみたいになっちゃいますよ。
現実を一緒に理解しましょう。
私が知らないこと(恋愛の方程式)もありますし、あなたが知らないこともあるでしょう。
お互い教えあえばいいわけです。
本当は見た目で人を決めるというのもないほうがいいんだけど
見た目、第一印象ってのはなかなか意識して人物の決断要素から外せないから
仕方なく認められている状態なのでは
見た目で人を決めてるなら人種で決めてもいいよねじゃなくて
ただでさえ見た目で人を決めちゃっているのだから尚更、というか、せめて、人種や他の要素では決めない方がいいんじゃないか?
ひどいフラれ方をしたからそんな風に言わないでくれってさ、あほか。そんなこと知るか。
あんたが過去にどんなひどいことを言われてようが私には関係がないんだし。
ってな感じのことを何重にもオブラートに包んで伝えたら泣かれた。
あったような気がするが。2005年あたり。で、全力でスルーしたような気がする。
母校の名誉を心から願うならば、黙っておくべきだったね。
早稲田です…でも母校の名誉のために一応言っておくと、居酒屋の男は通りすがりの知らない人だし、
ゼミの男は内部進学者でしかも留年していて年上で遊びまくってて
普段学校では姿をまったく見ないような酷い感じの人でした。
追記:女子はしっかり者が多いよ!
君はあたまがいいかもしれないけど、適応できる場が狭ければ狭いほど日本では無能とみなされます。
こればかりは、いまからあわせられるようにしていおいた方がいい。
難しいことを難しい言葉でしか説明できないようだと会社にも世間からも評価されることはない。
君が相手が低レベルだと思うなら、そこまで降りていかなければならない。
それが社会ってもんだよ。
日本では無能なら、自分の専門がいかせるところに行けばいいだけってことになるけど。
難しい言葉を使うのは、難しいことを簡単に指し示すことができるからなのに、難しいことを全て簡単な言葉で言い替えられるように考えるのは違う。
あと、君はあたまがいいかもしれないけど、
難しい言葉について言う前にあなたは「日本の」社会について話してるんだから、最後の社会も「日本の」とつけるぐらいの配慮したら?
「難しい言葉」よりもそっちの方が先だろ。
HDDが一台ずっと余ってたので、USB接続で3.5インチHDDを外付けHDDにできるマウンタを買ってきた。
PCに接続したところ、認識はしているようだがディスクが見えない。
そうかー、長い間ほったらかしだったし、ご臨終しちゃってたかー。
そして今日、HDDを新たに買ってきて差し替え、もう一度USBを差し込む。症状は同じ。もしやと思って管理ツールの記憶域の管理を見ると、未フォーマットのディスクがそこに。
そして俺の手元には多分まだ使える300GのHDDが1台余った。さて、どうしようか。
理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。
やれやれ、何かに厨をつけて粋がる奴が出てきたか
人生は歯医者の椅子に座っているようなものだ。さあこれからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう。 (ビスマルク)
ネタ元:V. E. フランクル 「夜と霧」, ISBN-10: 4622039702, ISBN-13: 978-4622039709, amazonの「夜と霧」, Wikipedia 夜と霧
要旨:生きる目的を、ことあるごとに意識し、現在の悲惨な状態に耐え、抵抗できるようにする。
以下、ほぼ原文からコピペ
わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを考える。
生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に経っていることを思い知るべき。
生きるとは、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。
生きることとけっして漠然なことではなく、具体的な何かである。つねに具体的なにかであるので、生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。
この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらす。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。
具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性がある。
生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむこと死ぬことの意味にも裏づけされた、総体的なもの。
苦しむことすら課題であり、その意味深さにもはや目を閉じない。苦しむことはなにかをなしとげるということ。
気持ちが萎え、ときには涙する。だが、涙を恥じることはない。涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。しかし、このことをわかっている人はごく少なく、号泣したことがあると折りにふれて告白するとき、人は決まってばつが悪そうなのだ。
生きることは彼らからなにかを期待している、生きていれば、未来に彼らを待っているなにかがある。
だが待っているものは、人それぞれちがうので、その人の話をよくきき、未来に彼らを待っているなにかについて、彼らにそれを気づかせる、思いださせる、思いつかせる。
ひとりひとりの人間を特徴づけ、ひとつひとつの存在に意味をあたえる一回性と唯一性は、仕事や創造、他の人やその愛など。
このひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生きつづけるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。
人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある。この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことをもふくむのだ。状況の深刻さを直視して、なおかつ意気消沈することなく、わたしたちの戦いが楽観を許さないことは戦いの意味や尊さをいささかも貶めるものではないことをしっかりと意識して、勇気をもちつづけてほしい。
犠牲の本質は、政治的理念のための自己犠牲であれ、他者のための自己犠牲であれ、この空しい世界では、一見なにももたらさないという前提のもとになされるところにある。しかし、その犠牲についても意味があるのだ。