大学で、海外に関するサークルに入った。インドで汚い川に入る人を見たり、臭い子供と戯れたり、虫食を試したりした。旅行に行けない時は海外のサイトをよく見ていて、死体や片足がない人やばあさんの乳やグロい風刺の写真が目に入った。
そういう異質なものを目にしていると、日常で生理的嫌悪を感じづらくなり、これはこういうものなんだなーで済ませられるようになった。友人たちも同じだと思う。とつぜん韓国人に絡まれても冷静に話して最後は一緒に酒飲み出したり、事故でグロい怪我してる人に迅速な手助けして表彰されたりしていた。
同調圧力の強い日本では、普通から離れた異質さがあると、多数派に嫌悪されると排他的に扱われる。生理的にムリなものは変えられないからという言い訳で、おまえが変われないなら雑に扱われるのは必然として正当化される。生理的にムリは変えられないと自己規定して、責任から逃れるのだ。
こどもの頃から、異国人と触れ合ったり、汚らしい臓器が出てる画像を見せたりすべきだ。だが現実には、ある議員曰く「ちいさいうちはきれいなものを見せて…」らしいので、まぁムリだろうなぁと思う。
異国の異質な部分だけを書いたら異国にも華麗な部分はある!と意味不明なトラバがつくというね
あと教養とは→
異国は汚ないものっていう差別意識がぷんぷん匂ってきて、こりゃはてサ連れそうだ 俺も大学時代に国際交流関連のサークルに入ってたけど、中央アジアのある国のファーストレディに...
言わんとすることは分かるし、そう間違ってもいないと思うが、これは釣れる・叩かれる
「生理的嫌悪感が弱まる」じゃなく「多様性を理解する」「偏見をなくす」「許容範囲が拡がる」って表現なら賛同を得られたと思う もちろん前者と後者は同じ意味ではないけど、増田...