はてなキーワード: エボラとは
再生産数Rが0.5にせよ1.5にせよ、感染者数(人間)は自然数をとるのであって、「感染者が(0.5 or 1.5)人いる」という状態は生じない。
たとえばあるウイルスが、1人の感染者が1人に感染させる確率と0人に感染させる確率がそれぞれ50%だとしよう。この場合、再生産数R=0.5である。
感染者の数が多ければ「50%」の試行回数が多くなるから、次世代の感染者数は現世代の1/2に近い数になる確率が高い(大数の法則)。R=0.5で現在の感染者が10000人いる場合、次世代は5000人くらい(Rt=0.5)だろう。
けれど、現在の感染者が2人だったら次世代が1人だとは限らない。2名とも感染0人のクジを引けば、次世代の感染者は0人(Rt=0)となる。50%*50%=25%の確率でこのウイルスは絶滅する。3人なら50%*50%*50%=12.5% (8分の1)の確率で絶滅する。これが確率的絶滅である。
つまり、簡単な算数的理解では、《 絶滅確率 = 1人の感染者が誰にも感染させない確率現在の感染者数 》となる。
これはR=1.5の場合でも同様で、たとえばあるウイルスが、1人の感染者が25%の確率で0〜3人に感染させるとすると、R>1つまり増加傾向のウイルスでありながら、現在の感染者が1人なら25%の確率で絶滅する。
また、これまでの例は確率の分布を一様にしているが、「多くの人は他人に感染させないが少数の人がたくさん感染させる(スーパースプレッダー)」という場合もある。
たとえばR=1.5であるが、4人のうち3人は誰にも感染させず1人が6人に感染させるとする。つまり、75%の可能性で0人に感染させ、25%の可能性で6人に感染させる。
この場合、現在の感染者が2名だとして、2名とも0人のクジ(75%)を引けば次世代の感染者は0になる。絶滅確率は75%*75%=56.25% (16分の9)である。
集団内の感染者が0名であれば、その集団内ではどれだけ接触しても感染しないので、そのウイルスに対する感染対策は不要になる(院内感染の鎮圧はこれを目指す)。外部からの流入にだけ気をつければ良い。
よくいわれるように、エボラウイルスは地球から絶滅していないが、日本国内ではエボラ対策無しに生活できる。日本国という集団内ではエボラウイルスが絶滅しているからだ。(もしかすると「絶滅」という言葉が強すぎるのかもしれない。「お家断絶」の方がイメージが近いかもしれない。)
大数の法則により、確率的絶滅は、感染者数が極めて少数のときにしか期待できない。
世代感染者数を100〜1000程度の波で上下させる施策(少ないロックダウンを長く)と、50〜100程度にする施策(短いロックダウンを多く)とでは通算のロックダウン期間は変わらないが、1〜10程度にする施策であれば、確率的絶滅によって、対策せずとも増えない期間が生じるため、通算のロックダウン期間も短くなる。(ここでの数字はあくまでイメージ的なもの)
だから、確率的絶滅を目指すかどうかは、対策の一つの大きな分かれ目になる。(現在の感染者数が多く、1回のロックダウンでは効果持続期間が足りず(自粛疲れ)確率的絶滅を達成できない場合も、ロックダウンを何回かに分けて感染者を徐々に減らすことで、確率的絶滅を目指すことができる。)
一部の男性の性欲が日常生活に支障をきたすような苦しみであり、
性欲は定期的な射精によって解消することが可能であり、心地よく射精に至るための文化的装置がポルノやオナホである。
それは医薬品ではないが、自分ではコントロールできない強い生理的欲求を解消するという広い意味での医療に類する役割を担っている。
私は性欲が比較的薄く、オナニーの頻度も低いが、ある程度の期間オナニーをせずにいるとある日朝起きたらパンツが夢精でべっとり、ということはざらにある。
もちろんこれはPMSに比べれば苦痛の程度は遥かに小さいだろう。精液は血液と違って洗濯すれば綺麗に落ちるわけだし。だが、「勝手に身体から変なものが出てくる」という意味では、朝起きたらパンツが経血で真っ赤だったというのと同じことだ。どちらも自由意志でコントロールできるものではなく、ただただ不愉快な経験であることには違いない。
女性の生理と違うのは、男性の射精は、その過程で快感を感じることができるということだ。したがって、男性の性欲は「定期的に訪れる不随意の生理現象」であると同時に、「定期的に快楽の機会を提供するもの」にもなっている。これが男性の性欲が医学的に問題視されにくい理由である。強烈な空腹を美食で満たすことができるように、強烈な性欲は自慰や性交で満たすことができる。
人間社会は、食欲を薬によって解消可能な生理的欲求ではなく「快楽を感じる機会」と捉えることによって美食文化を発達させてきた。ゆえに「食欲を抑える薬」はない。性欲も同じで、男性の性欲は薬によってではなくポルノ文化を発達させることによって解消することが目指されてきた。ゆえに「性欲を抑える薬」はない。
もちろん性依存症というのはあるので、医学的な介入が一切不要というわけではない。過食症に対する医学的介入が必要なのと同じだ。だが、適度の性欲は、適度の食欲と同様に「そういうもの」だと捉えられ、「お腹が減ったなら美味しいものを食べよう」というのと同じように「性欲が溜まったなら良いポルノを見よう(風俗に行こう)」というやり方で解消するものだとされてきた。
ポルノに対する規制にやたらと反発する男性は、ある意味では、薬やレストランを奪われようとしているようなものだ。そう考えれば、彼らの執拗な抵抗も理解できるだろう。
繰り返すように、月経による苦痛を矮小化する意図はないし、男性の性欲による苦痛が生理による苦痛と同程度とも思わない。だが、それは「定期的に訪れる、自分ではコントロール不能な生理現象」であるという点では同じなのだ。普通の風邪とエボラ出血熱がどちらも「ウイルスによって引き起こされる感染症」という点では同列であるように。
風邪とエボラはどちらも感染症だと広く認識されている。「エボラは病気だけど、風邪は病気じゃない」「エボラ患者はこんなに苦しんでいるのに、症状が遥かに軽い風邪の患者と一緒にしないでほしい」なんて言う人はいない。でも、「PMSは自分の意志ではコントロールできない生理現象だけど、男性の性欲はそうじゃない」という言説はありふれているし、男女を問わず多くの人が漠然とそう信じ込んでいる。それは間違いだ。男性の性欲も、女性の月経と同じく抗いがたい生理現象なのだ。その過程で快楽を生じさせるか否かという点が違うけれど。
何やら「アメリカの人種ヒエラルキーではアジア系は黒人より下で、黒人と白人の両方から差別されてる」などという与太が出回っているようで。
これは嘘っぱちですのでご注意ください(個々人の経験は別として、全体から言えば)。
むしろ、アジア系アメリカ人が他の人種的マイノリティ、特に黒人に対しての差別者であるとの認識すら、決して珍しいものではないのです。
※注意:この増田では基本的にアフリカ系アメリカ人のことを黒人と呼称します。
アメリカにおけるアジア系アメリカ人はその高い学歴、経済的成功から、他の人種的マイノリティより高い階層にいるとみなされています。
これは"中間層マイノリティ/Middleman minority" (Bonacich 1973)や"人種的ブルジョワジー/Racial bourgeoisie" (Matsuda 1993)といった呼び方や、"アメリカの人種的ヒエラルキーにおいて白人と黒人の間のどこかを占める、第三の存在" (Kim and Lee 2001)という評価など、古くからの認識です。
Bonacich, Edna. (1973) A Theory of Middleman Minorities” American Sociological Review 5: 583–594.
Matsuda, Mari. (1993) We Will Not Be Used. UCLA Asian American Pacific Islands Law Journal 1: 79–84.
Kim, Claire Jean, and Taeku Lee. (2001) Interracial Politics: Asian Americans and Other Communities of Color. PS: Political Science and Politics 34 (3): 631–637.
モデル・マイノリティ(ここで言う"モデル"とは"見本"のようなニュアンスです)という言葉もあります。ポジティブなステレオタイプを持つマイノリティのことで、アメリカではアジア系を指すことがほとんどです。
勤勉で、まじめで、よく働き、自立していて、etc., etc...ポジティブなステレオタイプゆえに支援の手が伸びにくかったり、ステレオタイプの押し付けが起きやすかったり(褒めてるんだからいいじゃん!的な)、ネガティブなステレオタイピングとはまた別の問題があります。
これは他のマイノリティをディスる、さらには人種間の対立を煽るのに使われる――アジア系の連中はあんなに成功しているのに、黒人はどうして貧乏なままなの?努力が足りないんじゃない?――場合があります。
一方で、このステレオタイプは就職等でプラスに働くこともあり、一筋縄ではいきません。
アジア系の中には上記の対立煽りを真に受けたり、黒人への蔑視を白人と共有する人も存在します。
アジア系アメリカ人の人種差別に関する意識は白人と近く、2008年の世論調査(***)では黒人の65%、ラテン系の55%が「人種差別は未だ、我々の社会における重要な問題である」と答えたのに対し、アジア系と白人でそう答えたのは33%でした。
また、「人種差別は存在するが、もはや重要な問題ではない」という答えは黒人で23.9%、ラテン系37.8%、アジア系50%、白人60%でした。
しかし、やはりマイノリティー、被差別者としての側面もあり、上記のステレオタイプの押し付け、落伍者への冷たい目、キャリアにおける差別("竹の天井"と呼ばれます)が存在します。
さらに、アジア系は集団内の格差が激しく、日中韓印系とそれ以外で状況は違うにもかかわらず、アジア系全体の恵まれたイメージから支援が届きづらいことがあります。
黒人たちと同様、シンプルで醜悪な人種差別にさらされることだって当然あります。
また、コロナパンデミックにおけるアジア系の人たちへの差別で、黒人が声を上げなかったとするのも間違いです。
100 Black Menという市民団体はAsian American Business Development CenterおよびHispanic Federationと共同声明でアジア系差別を批判してますし、黒人コミュニティや個々の黒人もtwitterなんかで差別を批判してます。
ただし、アジア系の人々が今まで黒人を差別していた/黒人差別に声をあげなかったという理由から、彼らのために声をあげたくないという黒人もいます。
例えば、黒人コメディアンのGodfrey氏はinstagramに投稿した動画で「エボラのパンデミックの時、君らはどこにいた?我々が警察に殴られているときには?」と述べ、「君たちのスーパーヒーローにはなれないよ。他にやること(無数の差別への対処)がいっぱいあるんでね」と答えています。
※トランプの"中国ウィルス"呼びを肯定していたり、中国人の食生活や、パンデミックに対する中国の責任、中国から入ってくる安い商品等への批判もしているため、単なる反中国論かもしれませんが。
アジア系アメリカ人とBlack lives matter (以下BLM)の関係もまた歴史的に複雑な背景を持ちます。
BLMが使われだすずっと前ですが、ロス暴動の前日譚として黒人と韓国系アメリカ人の間の緊張状態および、韓国系アメリカ人による黒人少女Latasha Harlinsの射殺事件がありました。
2014年の黒人射殺事件は中国系アメリカ人警官によってなされました。新人警官のPeter Liangが同僚とパトロール中、ガールフレンドとデート中のAkai Gurleyと暗がりで鉢合わせ、つい射殺(直撃ではなく跳弾)してしまったのです。
Liangは過失致死で有罪判決を受け、それに執行猶予5年がつきました。
この事件は中国系アメリカ人と黒人の両方から批判を浴びました。
中国系アメリカ人側は「白人なら起訴されないのに中国系ならされるのか」と起訴の取り下げを要求し、黒人側はBLMを掲げて射殺に抗議しました。
ジョージ・フロイドの死に関しても、関わった4人の警官のうち一人はアジア系アメリカ人のTou Thaoです。
アジア系アメリカ人団体Asian American CommissionはBLMへの連携を表明した上で、その声明文中にて「アジア系コミュニティにおけるアンチ黒人の深い根」の存在をあげ、コミュニティの変革を求めました。
※「(アジア系は)差別されてきたが、同時にモデルマイノリティ神話等から利益を得てもいる」等の意見も声明文には含まれていることもあり、一部のアジア系アメリカ人はこの声明に反発しています。
勘違いしないでほしいのは私が「黒人がアジア系を差別している」へのカウンターとしてその逆を言っているわけではないということです。
黒人差別に声を上げるアジア系、アジア系差別に声を上げる黒人、当然のようにいます。黒人のレイシスト、アジア系のレイシスト、当然います。白人、ヒスパニック、その他マイノリティも同様です。