「落ち着け」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 落ち着けとは

2007-02-06

くそー! 別れた彼女に男ができたちゃったよ。

ほんの一ヶ月前に別れた彼女に、どうも彼氏ができたらしい。

別れた理由はオレのはっきりしない態度が原因なんだろうけど、もつれにもつれ、こじれにこじれ、お互い傷つけすぎた関係はもう別れることが最善と思ったから。ほとんど自然消滅になりそうだったけど、はっきりさせたほうがいいと思って昨年末別れを切り出したら、彼女も同じ事を思っていたようで、淡々と涙もない別れになった。

くそー!でもこの感情はなんなんだ!

別れることは間違ってなかったはずだ。後悔はしていない。でもいま、彼女が他の男と楽しそうにしたり寄り添ったり触れあったりしてると考えただけで、猛烈な嫉妬を感じまくるのだ!

オレはどうしようもない焦燥感を感じながら、彼女の白い肌や柔らかい肉の感触を思い出しながら激しいマスターベーションをせずにはいられなかった。好きなことはホントだったんだよ!もっと好きになりたかったんだよ!でも怖くてそれ以上先に進めなかったんだよ!

果ててしまってもオレは損なってしまった何かを取り戻すことなんてできずに、まとまらない気持ちを落ち着けるために、彼女にもらったソラナックスを一錠のみこみ、しばらくのあいだ泥のように眠ることに決めた。

2007-02-01

いい加減に書く

もういい。僕はもう既製品を捨てる。手作りする。なんだって。

ありがたがっても何も僕にもたらしちゃくれない。

何か作ろうと思う。

最近考えていることは言葉にまとまらない。

考えているのかもわからないけど、なんていうんだろう、全部白ければいいのにみたいなそんな感じ。

数学的な美しさとでもいうか、完全なる循環とでもいうか。そういうのを考えてる。憧れてる。

時間は一つの向きに向かうけど、変わらない綺麗なものがあればいいと思う。太陽をみて落ち着ければそれで良いというような。

何もなくていい。一枚シャツを着てパンツ交互に履けば良い。毎日手洗いすれば良い。

夜だけは何も考えられないように暗幕が下りれば良い。

その中で考えても多分何も思い浮かばないだろう。一度変に染まった何かを完全に白くするのはとっても難しい。

それにこの世界にそれを置いてみたって何も変わらない。

結局僕らは人間をやめられない。

とても曖昧存在だ、ちょっとだけ腰を下ろす存在だ。それ以上には成れず。ただ生きていくほかにない。

なんでもない生き物だ。変わりゆくことにアイデンティティを持つこと自体が言葉としては矛盾している。

スタイルを持ったってそれはいつか消えてしまう。でも自分がいる間だけモテバそれで充分なのかもしれない。だからもしかしたら生き物もまた素敵な存在なのかもしれない。

僕たちは考えたり、行動したり、感じたりする。

そうすることしか出来ない。世界と対話をし、自分と対話をすることしか出来ない。

その中で出来ることは限られているように思う。案外何も出来ないもので、むつかしいものなんだなと。

僕たちに何が出来るようになるだろうか、出来ることはしつくされてしまったか。

アメーバの行動範囲がちょっと広がっただけじゃないのか、人間は。

いい加減な世界だ。人間たちはルールを作って楽しくやってる、砂上の楼閣だと思うことも出来るが、それは皆が信じればそうなるようになってるらしい。

世界はまだ人間たちに使い尽くされていないのだろうか。人間を続けた先にもまた同じようなアメーバがいる。

生き物はとてもいい加減で、いい加減さの上に立たなければいけないのかと思うとなんともいえない気分になってくる。

正直、僕には辛い。人間として生きることはいい加減さの上にわかった上で立つことなのではないかと思えるから、如何にそれが生き様だとしても。

自分自身がいい加減だと思ってしまうようになったらもう駄目なのかもしれない、何かが成り立たなくなっちゃうのかもしれない。現になってる気がする。

そうだな、僕も僕が機械だったらいいのにと思わないこともない。むしろ大有りでそれがきつい。

なんでこんな生きるために生きる生物なんかに生まれてしまったのだろう。つらい、きつい。

生きるために生きるか、僕も遺伝子から作られた機械なのかもしれないけど、一応自我をもつ生物だからな。こんなもん持ってる意味あんのかな。

見えない暗闇の中を共同で照らしつつ何かを知る。共同して何かをする。

なんと我侭な星のひかり散光か。いい加減さを生きねばならんのだろうか。

2007-01-21

日記

見えるものや音や匂いなどが平坦に、平坦な俺に真っ直ぐ降り注ぐ。それは祝福であるなんて脳みそ皺なし。どうにかなって。140センチメートルほどの老女三人が談笑しながら歩いて、向こうからやって、決して俺を見ないのだが、一つだけ言っておきたい。三人はそっくり。俺は、何もかも平坦でつらいというか、しんどいし、だるいなあ。言ってもしょうがないから。音も平坦なのは耳が悪くなったのかなと思いながら、ぼうっときょろきょろばかりしていると急に目がおかしく、ぐわんって明滅し、次第にスケールが狂ってしまう。体も重い。ふにゃふにゃーっと体が背骨ごと折れ曲がって俺は座り込んでしまうともう立ち上げれず。老女はまだ遠くからにやにや歓談しながら近づいて、その所作は極めて小人っぽく、近づくごとに、ああ矢張り小人なんだろ、と確信したくなるほど小人なのだがしかし多分小人じゃないなと心の何かによって思って、落ち着け俺、と呟いたが落ち着かない。そわそわしてしまう。この奇妙さは何なの。あ、今気付いた。なんか俺が小人になっていくようでもあるな。なんでだ、と思っていた。そして、いや、スケールがおかしいのは俺以外のものがどんどん大きくなっているからじゃねえ、と思ったら。寧ろ婆たちはでかくなって、俺が小さくなりだして。あらあら。俺以外がみんな大きくなるのと、俺だけが小さくなるのはどこに区別があるんだ。むずかしいですね。俺以外はどんどん大きく、それか、俺がどんどん小さくなって、ある地点で、婆よりも俺のが確実に小さいと思ったけれどもサダカではない。しょうがないな。俺はガンタンクのように立ち上がってぐんぐんっと逃げたが、小さくなっているので中々前には進まないでその場から遠ざかれない。婆らが、しわがれた声で笑いだした。不穏。気温が下がった。サミー。ひゃーひゃーひゃーと笑う声が、ドーム内のようにくぐもって木霊するのがきもちわるく、むかつく。俺が小さくなるのは止まないし。笑い声も止まないし、耳が聞こえないし、目も見えなくなったよ。今。笑い声だけ聞こえる。何も見える。すべては世界の所為であると僕は直感した。それほど悪辣な、悪魔的な所業。世界の所為にした。私以外のものすべてが世界だろう。私は私のことを省みない婆たちを恨みたいが、しかし、善良幸福そうな彼女らが私利私欲怨恨怨嗟のために或いは意地悪で或いは俺を怒りらせようとしてわざと嫌な風に笑っているのだ、とは思えなかったし、文句を言う気も起きなかった。いづれ止むだろう。と思って我慢した。4秒。しかし、笑い声は止まぬので、俺は益々苛々してくよくよした。それを反復しました。いらいらくよくよしました。疲弊した。もういきていられぬ。婆らは自分がそのような声を出して笑っていることについてどう思っているの、と考えた。知っているのか。受け入れているのか。幾十年前は恐らく婆たちだって花も恥らう乙女だったんだと思うけれど、その時もああやって笑ったのかというと、あんな風には笑わないだろ。少なくともしわがれてはいないんだ。じゃあ今俺をくよくよさせているこの声は何なのか。これが老化か。格好良く言うと老化現象。わからないが。いや。分からないけど、でも、と、私ことあたいは思ったンだ。私たちの住む世界というのは何の断りもなく当人さえ知らぬうちに何もかも変容させるし、それも受け入れないならば死ぬしかないみたいな嫌がらせのようなあくどい世界で、それはまあ何度も何度だっていやになるのだが、しかし死んだからといって願いが叶うとは限らないし、それどころか死んでしまったら自分がその現状さえ維持することも極めて難しくなる。例えば、死んだ自分を自ら死んでない死んでないなどと言ってフォローすることさえ自らが死んでしまっては不可能なんであるからね、というか大体において死んだ身体というものは動かないし死ぬのは怖いし死の先は見えず見えないものというのは大体において恐ろしいものだけどそれが何故恐ろしいかというとそれが何なのか分からないからでまた大体のものというのは分からないものなのでもあるからこそ分かったような気にもなるのな。たぶんだけどね。お前が悪いわけじゃなく、お前が悪いわけでもないんだがお前が嫌い、と思っていた。僕は。そして、気がつくと目が覚めていた。気がつくときはいつも目が覚めていた。ほってんとりを見ていたら、コーヒーをこぼしたらキーボードが壊れた。多くのキーが反応しない、そんななか、kキーだけ自分は押されてると思い込んでkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkってなってる。押してないいよ。キーボードを買いに行く。しかしお腹が、ぐるうん、ぐるうん、ぐるうん、と断続的に、連続的に鳴り続けて止まないのだがどうしたら良いのだろう。お腹の音は本人が思うより周囲には聞こえないものだけれど、聞かれても大人的に知らんふりされるのだろうけどで、さすがに、これは、知らんふりしずらく、見つかったら、奇妙というか珍妙で、恥ずかしい、堪らないなと、僕は舗道をずんずんと早歩いていた。空腹というのは波だから、収まるのを待とう。それまでは、騒音のある郊外にいようとおもったのである。さみーとか思いつつ。考えつつ、ふらふらする。そもそもお腹の音が止まないということはありうるのだろうか。僕は今現に自分で止まないと言っているのにそれを疑っています。疑り深い。ぐるうん、ぐるうん。空腹。自分が楽器になったようだ。或いは虫だな。空洞の胴体が振動している。手はおまけのようにくっついてぶらぶらしているし、足は勝手に歩んでゆくような。頭は余計な下らない装飾のように生えているだけだ。腹が歩いてく。盲目の人を見かける。こんな街中で。赤線の入った白い格好良い杖をもっている。俺のことが見えない人。盲人。意地悪をしたくなる。僕は眼というのが嫌いだなあ。とくに軽蔑の目なんかは胃が痛くなる。敗北感が鳩尾辺りできりきりする。次の朝起きれなくなる。その割りに僕という人は尊敬される人でないし、寧ろ積極的に軽蔑される人だよなー。不思議。世界は絶望で満ちていますか。だって。わらた。いやらしいハッピーエンドいやらしいいやらしいいやらしい。迷惑な命。生まれてきて残念でしたすいませんでしたもうしませんもう生まれてきませんビスケットのすいませんでしたマリーを食べていたら頬がなんだか熱をもってしまい口中は乾いてつばを飲んだら喉が痛うという憂き目である。散々だ。死んだほうが益しだ。菓子ばっか食っている。たまにしか死にたくならない。幸いなことである。なんて幸福なの。なんて幸福なの。自己を規定する際他人というものはとりたててじゅうようで他人なしに自己を形成しようとすると失敗してしまうな。自分とはおそらく社会的なものなんであって他人なしで自己を作っていくと自意識だらけになってしまうのだろ。結果的びに自分の誠実を守るために都合の良いルールを取り入れなければならず、自分中心を後後天的に許容して、独我てきに、あらゆる責任は私に帰するのだとして、私が気持ちよいやうにやる、と言って逃げ回っておるだけで、逆説的に、逃げるのはつらくないから気持ち良いのであって、結局、態度を保留し続けているという極めていやらしい態度で生きている。のうのうと死にもせず、愛されもせずに。おぞましく不愉快生物がいたものである。ああそうだ。何もしてないのに髪が伸び続けるのは俺へのあてつけで、嫌がらせなのだ。爪が伸びるけど爪きりが見つからない。すぐに物をなくしてしまう。数年前のことなんだけど、2ちゃんねるの書き込みの、思春期に愛されなかった人はもう一生愛を知れない、というような断言には呪われてしまっていた。そこまで言い切る根拠はなんだ、気が狂っているのか、こいつと、おれは全く思わずに、静かにゆったりとした時間の中でぼんやり発狂するところだった。精神薄弱である。でも実際、そんな阿呆な、とすら思えなかったのでびびりますね。如何に下らない言説であろうともタイミングによっては直撃的なネガティブ信仰呪いとして無抵抗で受け入れてしまうときもあるものなのだな。少なくとも俺にはそういうところが。俺はそのときは本当に呆然自失して、がびーん、てなってた。もうだめだ。もう。このクソみたいな煽りみたいな2ちゃんレスに中てられているんだけだとは半ば、知りつつも、悲劇みたいな憂鬱的な心地よさにおちついて、徐々に憂鬱浸しになってゆくしな。しにたいとゆって、決して死にたくないのに。死にたいと言う人にじゃあ死ねというのはひどいね。だれのこととはいわないけども死にたいって言うひとはたしかに気持ち悪い。うぜえ。死ねばいいのに。だめなやつら。時折死にたいと呟くやつがいるが、いけないんだぜ、実にいけない、俺は少なくとも本当は死にたくなんてなかった。死んでしまった以上なんとも言えなけれどもね。俺は、つうか寧ろ、なのであるが、生きていない状態を死んでいると言うから、つまり、それは生きているの対義語なんであって、だから、生きたくない、死んだ状態になってしまいたい、という意味死にたいと言ってゆるのであって、まじ死のうとしている気狂いと一緒にすべきではなかった。願っていただけだった。おれは。静かに。死ぬという行為をスキップして死んだ状態になりたかっただけだ。歩きたくなければ歩かなければ良かった。生きたくなければ生きなければ良い。それは馬鹿だ。馬鹿な話だ。この世は極楽だ。歩かないことは簡単であるが、生きないことは簡単ではない。我々はもはや生きないためには積極的に死ななければならない。生きないからと言って呼吸運動を停止するのはつらく、ご飯を食べないのもつらい。痛いのはつらい。そして、だからこそ僕は死にたいと言って死ぬ覚悟を得るために生きない理由を思いつこうとするがどれもこれも結局のところ全く致命的ではないのだ。吃驚しますね。いいから死ね。積極性をもって死にたくない。だって俺は生きたくないだけだ。誰が好き好んでつらい思いして死ななきゃならないんだ。馬鹿か。もういみわかんねえ。せかいはいみわかんねえよ。いいから死ね。命に意味ほにゃららと誰かが言い、クソカルトである不謹慎禁止教徒どもが、わめきちらす思想はすべての命を汚辱に浸している。倫理なんか水伝と一緒の癖に。人なんかみんな死ねばいいんだ。つらいのが嫌なだけで、そういった思想の持ち主は生きていてはいけないのだ。俺はただ動物のように生きたいと言うが動物にしては恵まれすぎている、といって、俺から言語を使うな、火を使うな、道具を使うな、公共を使うな、恥じ入っても生きろ、などといえたものか。動物が有利を捨てたりするものか。あらゆる責任を放棄して、迷惑をかけて、死、ん。うんざりだな。死にたくない。今の生きている状態を回避していたい。つまり死にたいのだが。死んでいたい。最初から死んでいたい。それはできない相談だ。死ぬのが怖い。それだけでなく、実は死ぬ先も怖い。びびっている。地獄なんてないのが嫌なんだよ。俺は。地獄なんてないと人は言うのだ。まともな神経の人間はそう言う。地獄なんてないとまともな神経の人間は人は言うのだが、そんなはずはない。僕に地獄が与えられないはずが無い。平等に与えるべきだ。子犬に、子リスに、養鶏に、俺に。平等に。あらゆる生き物の命は平等である。それは正しい。あらゆる命が平等に無価値だ。正しい。たしかに! そうして価値は常に"社会的"にのみ宿るのであった。ウケル。俺は絶対に働かないと言ってやる。そうすれば少なくとも俺から奴隷的価値はなくなるかもしれない、扱いにくいとして少しは減ぜられるかもしれない。もしかしたらだけど。いいから早く死ね。そうして、俺は不健康だし、やせ細って、いる。だが僕には価値がある。マッドサイエンティスト実験人間としての価値。人間を粉にして作る薬の原料としての価値。まずい人肉としての価値が、俺にはあるぞ。僕が何かの人質になると人道的なんとかと言って誰も俺を望まなくても俺には人質として価値が付与されるのだ。俺は社会的な生き物なのだ。じゃあ鯨も社会的だ。鯨食いてえ。蟻は社会的だ。ライオン社会的だ。カブトムシ社会的だ。カカオ社会的だ。人間なんてくそだ。って鯨が言ってましたよ。どうなんですか。人間。鯨の命はチキンのより価値があるのだろう。ばい菌やビーフやエチゼンクラゲ保健所の犬とかわいがられてる犬と投げ捨てられる子猫野良猫と血統書とかペットとか金持ちの子と貧乏人の子。すべての価値を認めたくない。地獄なんてなかったね。行ってきたけど、ありゃあ地獄なんて呼べるようなとこじゃねえ。よって結論はあの世に地獄なし、ということでね、知ってるわ、じゃねえ。しらねえよ。お前。地獄なんて信じないくせに。いや、あるかもしれないし、死んでみないことには、などと、阿呆らし、論壇きどちゃって? はは、こうしたこまっしゃくれた奴らは駄目さ。なんでもメタに構えちゃってね。俺がメタメタに立って優越感ゲームになっていますね、って、そのレッテル貼りが既に優越感ゲーム、ゆゆゆゆゆって、ですか、阿呆らし、やめよ、どちらにせよ論理的云々などといってはまた保留だよ、永遠に保留し続けますか。まあ、だからと言って地獄存在を鵜呑みにする連中ってのもどうかと思いますけどね、端的に言って宗教者はきもい。宗教は駄目だ。というのは俺が信じれないからだけど。俺に純真がないからなあ。奇跡がない。啓示が。俺に与えられない。これからも与えられはしないだろう。何かを与えられる事を望んではいけない。どのような状況においても。それは甘えなのだ。つらい事をやめてはいけない。それは怠けなのだ。ナマケー。いいからやれ、と、結局はそれへ収斂するよね。あらゆることがそうなのだよ。俺は仮定で、空想上の人物で、空論以外に、何かを実行することが、不可能なのにな。残念だ。あるひとは俺を指して、言語に支配されてきもい、と言ったのだ。たしかに。だった。そういうしかねえよ。本当正しいぶっていますね。俺なんて、いいから死ね、といわれればそれまでである。死ぬしかない。いいからやればー。うるせーばか(ここで絶命しました)。

2007-01-16

六年来の男の友人がいる。

会っては夜遅くまで遊んでたり、夜中にずっと意味もなく長電話したりしてた。http://anond.hatelabo.jp/20070114231823言葉を借りれば「家族みたいにいっしょにいて落ち着ける人」でもあったし、このまま友人関係も続けたいなと思ってた。

六年前当時から彼に恋愛感情は持ってない。その友人が好きだと言う女の子がいたから、お節介やいてくっつけようと画策したりもしたし(結局実らず終わった)そういうのは考えてなかった。ただ、一昨年ぐらいから「ん?」という出来事が何回かあった。前より親密さやレスポンスを求めている感じというか、悪いけど確証はないので断言出来ないが、おそらく今非常に彼が恋愛感情と友愛感情のボーダーラインなのでは、というような「感じ」。

自意識過剰だと思ってくれて構わない。というか何割かはおそらくそう、だけど何割かは当たりだとも思う。女子というのは時々妄想爆発させちゃってひとりよがりで好いたり嫌ったりするようなどうしようもないところがある、それは女子のはしくれとして私も認めるしかないし自覚している。

その(自意識過剰による過剰防衛かもしれない)自己防衛は、悪くないことだと思っている。「友人関係のままでいたいけど」なんて実際生ぬるい。なんで出来ないんだとか言っても無意味。私も「出来るのならいい」と思っている。でも「出来る」と思ってるのは一部で、実際出来ないのが多数なら、しないように自制する方が相手にも優しいし自分も困ったことに巻き込まれなくて楽。出来る男の人がいるかもしれないことは否定しないけど、「なんで出来ないんだ」なんて言うのは主に男の人に悪い。

そして去年、私は彼とは違う好きな人が出来て、付き合うことになった。

それからもその友人とは付き合い続けたけど、前ほどべったりはならないように徹底した。夜遅くまで遊ばないし家に遊びに行ったりもしなくなった。彼氏が出来たこともさらっと伝えると「良かったね」とさらっと流されたし、そんなに気にしてはいなかった。

今年、私はその「好きな人」である彼氏結婚する。彼にも結婚式には来てほしいので、こないだ会った時さらっと言った。

…長い沈黙が訪れた。

うわあやっちまったと半笑いのまましばらく過ぎて、少し席を立ってから戻ったら復活してた。しかも今度は妙にテンション高く「惚気てみろ」と言ってくる。そう言われても何を言ったらいいか分からないままその日はグダってサヨナラ。

それからその友人と連絡が取れません。

http://anond.hatelabo.jp/20070116145424 を見て実体験の話をちょっと書いてみたけど沈む。

あの時私の取った行動は間違っていたんだろうけど、いまだにどうしたらよかったのか分からない。べったりくっつかないように努力して期待持たせずにいたつもりだったんだけどそれでもやっぱりだめなのか。だめなんだろうな。

2007-01-14

おれの部屋に週2位の割合で夜中に遊びにきやがって

帰るのは次の日の昼ごろで

眠くなったら俺の目の前で仮眠とかとりやがって

俺と話す時はすごいうれしそうな顔してて

しばらく会わなかったらメールで「ねえ、私のこと覚えてる?忘れてないの?」

とか送ってきやがって

彼氏にしたい人は家族みたいにいっしょにいて落ち着ける人」とか言いやがって

それでこれは99%大丈夫として告白したら

「他に好きな人がいるの」だと。「君の事は大事な友達のつもりだった」だと。

畜生。もう一生女なんか信じない。興味もない。おれは一生独り者だ。

2007-01-11

まあなんだその

おまえら落ち着けキャベツ時間だ。

腹減った。

2006-11-17

http://anond.hatelabo.jp/20061116162144

そういうゲームは初期から何度も提案されてたけど、完全に特定しちゃうと増田意味がないよな。

ヒントを出すだけ出しておいて、最終的には「ふふ…さてどうでしょうなぁ…」というところに落ち着けたい。

2006-10-11

「もうだめだ! 監視されてる!」

「おい、落ち着け。なんだって?」

「ずっと見られてる! 睨んでるんだ! 彼女が!」

「……救急車を呼んだほうがいいか?」

「違う! ……どこに逃げたって無駄だ……どこまでも……追ってくる…」

「しっかりしろよ。誰が見てるっていうんだ?」

マリア様が……窓にマリア様が……」

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん