もういい。僕はもう既製品を捨てる。手作りする。なんだって。
ありがたがっても何も僕にもたらしちゃくれない。
何か作ろうと思う。
考えているのかもわからないけど、なんていうんだろう、全部白ければいいのにみたいなそんな感じ。
数学的な美しさとでもいうか、完全なる循環とでもいうか。そういうのを考えてる。憧れてる。
時間は一つの向きに向かうけど、変わらない綺麗なものがあればいいと思う。太陽をみて落ち着ければそれで良いというような。
何もなくていい。一枚シャツを着てパンツ交互に履けば良い。毎日手洗いすれば良い。
夜だけは何も考えられないように暗幕が下りれば良い。
その中で考えても多分何も思い浮かばないだろう。一度変に染まった何かを完全に白くするのはとっても難しい。
それにこの世界にそれを置いてみたって何も変わらない。
結局僕らは人間をやめられない。
とても曖昧な存在だ、ちょっとだけ腰を下ろす存在だ。それ以上には成れず。ただ生きていくほかにない。
なんでもない生き物だ。変わりゆくことにアイデンティティを持つこと自体が言葉としては矛盾している。
スタイルを持ったってそれはいつか消えてしまう。でも自分がいる間だけモテバそれで充分なのかもしれない。だからもしかしたら生き物もまた素敵な存在なのかもしれない。
僕たちは考えたり、行動したり、感じたりする。
そうすることしか出来ない。世界と対話をし、自分と対話をすることしか出来ない。
その中で出来ることは限られているように思う。案外何も出来ないもので、むつかしいものなんだなと。
僕たちに何が出来るようになるだろうか、出来ることはしつくされてしまったか。
アメーバの行動範囲がちょっと広がっただけじゃないのか、人間は。
いい加減な世界だ。人間たちはルールを作って楽しくやってる、砂上の楼閣だと思うことも出来るが、それは皆が信じればそうなるようになってるらしい。
世界はまだ人間たちに使い尽くされていないのだろうか。人間を続けた先にもまた同じようなアメーバがいる。
生き物はとてもいい加減で、いい加減さの上に立たなければいけないのかと思うとなんともいえない気分になってくる。
正直、僕には辛い。人間として生きることはいい加減さの上にわかった上で立つことなのではないかと思えるから、如何にそれが生き様だとしても。
自分自身がいい加減だと思ってしまうようになったらもう駄目なのかもしれない、何かが成り立たなくなっちゃうのかもしれない。現になってる気がする。
そうだな、僕も僕が機械だったらいいのにと思わないこともない。むしろ大有りでそれがきつい。
なんでこんな生きるために生きる生物なんかに生まれてしまったのだろう。つらい、きつい。
生きるために生きるか、僕も遺伝子から作られた機械なのかもしれないけど、一応自我をもつ生物だからな。こんなもん持ってる意味あんのかな。
見えない暗闇の中を共同で照らしつつ何かを知る。共同して何かをする。
なんと我侭な星のひかり散光か。いい加減さを生きねばならんのだろうか。