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はてなキーワード: 箪笥とは

2008-09-16

GIGAZINEにぜひ日本引越センターを利用してほしい

料金表に書かれた料金が割安だったから、日本引越センターというところに引越を手伝ってもらったんだが、あとからどんどん料金が追加されていった。はじめは1万円台だったのが、最終的に4万円台になった。

加えて物も壊された。箪笥には大きな傷があるし、ノートパソコン液晶が割れてた。電話で問い合わせても担当がいないから詳しいことはわからないが引越前に壊れていた可能性が高い、引越前に確認していないのにこちらのせいにされても困る、詳しいことは担当に折り返し電話させると言われ、何だこいつ…って思っていたら何も言われずに電話を切られた。普通は「これからもお願いします」的なことを言うものなんじゃないのか。そして未だ折り返しの電話はない。3日経っている。

そこでぜひGIGAZINE日本引越センターを利用してもらいたい。そしてぜひ被害にあってもらいたい。そしてぜひGIGAZINEに記事にしてほしい。

http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080827_osaka_gas_service/

http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080901_osaka_gas_service2/

2008-07-06

いつも結婚して良かったなぁと思ってる。

弁当作ってくれる

弁当作ってくれるんだが、弁当の袋にいつもちょっとしたお菓子を入れてくれてる。

アポロとか、キャラメルとか、キットカットとか、たまに子供向けのかわいいお菓子

そうしてくれと頼んだわけじゃなくて、そういう心使いが嬉しい。乾燥の季節にはノド飴とか、工夫がある。

メシがうまい

外食サイコーと思ってた独身時代の俺は間違っていた。

しかも、カレー中華、すきやき、鍋など「何で食いたいのがわかった!?」という絶妙なタイミングで好物を出してくれる。

普段はカロリーを考えてくれてるけど満足度高いメニュー。

専業だが、サボッてる感じが一切ない。

「私、おうちにいられて楽させてもらって、ずるいわね」と言うが、風呂トイレ洗面所、部屋の掃除はもちろん

クロゼットの中を陰干し日干し、俺のバッグや靴の手入れ、PC周りもホコリひとつなく各部屋の棚の中もきれいで、

シーツもいつも洗い、枕も布団もフワフワ、俺の冬物セーターの毛玉取りをし、ニット帽好きの俺に帽子を編んでくれ、

寒さに合わせて箪笥の中の服をかえてくれてあり、ベランダもきれいで、冷蔵庫の中もいつもきっちり整頓。

実家でも一人暮らしの家でも会社でも出るホコリアレルギーが、家では一切出ない。

いつもかわいい。

やりすぎない、ちょっとしたおしゃれをして待っててくれる。

「遅くなるから寝てて」という日は、パジャマを着てはいるがいつもよりかわいいワンピースみたいなパジャマだったり

色んな髪型にしたり。一緒にエヴァ見た次の日は、アスカになってた。見た目もすごい好み

趣味を非難しない

俺はちょっとオタクなんだけど、趣味を非難しない。マンガを置くスペースを作ってくれたり、一緒にアニメ見てくれる。

妻の趣味海外雑誌インテリアファッションデザイン誌など)を取り寄せて読むことと海外古典文学なんだけど

俺の趣味につきあってマンガも読んでるらしく、ある日いきなり「Dioも承太郎もかっこいいよね、どっち派?」とか言うw

あーもー書ききれん。とにかく結婚してよかったと思いすぎる。

2008-06-21

ある1982-83年生まれが語る半生

半生というには人生短く見積もりすぎか。しかし「四半生」なんて単語もないだろうからこのタイトルで行こう。

基本的にはとてもparticularな話ではあるんだけど、この世代がみな避けられなかった共通体験的なものも入っているはずだから、そこは誰かのなんかの役に立つかもと期待して筆を進める。

幼稚園時代、声が大きかったという理由で劇の主役に抜擢され、市民会館のホールで大声で叫んでたことが真っ先に思い出される。

(親から言わせると元気さだけがとりえで役者としては・・・だったらしい)

家から歩いて3分のその幼稚園仏教系だったので、春になるとお釈迦様の誕生日を盛大に祝ったりしてたが、そもそも「お釈迦様」が誰なのかその頃はわからなかったし、ほとんど毎日あった正座がつらかった。

年長の最後の頃に、天皇が死んだということで園児全員を集めて黙祷だかなんだかやっていたけれど、その意味もあまりわからなかった。

小学校に入ると、学区の端だったので、40分近く歩くことになり、慣れるのに苦労した。そもそも通学路が遠回りのルートだったので、よく「通学路破り(つうやぶと呼んでいた)」をしたものだった。

その小学校クラス替えが2年ごとだった。最初の2年間一緒のクラスだったSは問題児で、いつも喧嘩を仕掛け、何度か巻き込まれたし、ある時には彫刻刀を向けてきたりもした。漏れ聞くところによると彼の家庭状況は悲惨だったらしい。ただ担任の女性教師は毎回教室全体に響き渡るような声で彼を叱りつけていた。ある時彼女が「これがストレス発散の方法なの」と漏らしたとき、小学生ありがちな先生への絶対的な信仰を打ち捨てるに至った。結局彼は3年の途中でいなくなり、その後の消息は知らない。

ドラクエ4は初めてリアルタイムの発売日に買えたドラクエで、喜びのあまりお腹が痛くなって、市民病院に担ぎ込まれるほどだった。

だけどやってみると「3のがおもしろかったかな」とか思った。

3,4年の頃の記憶はあまりない。そもそもその頃年子の妹ができて、母の代わりに家事やらなにやらを手伝わなければならず、てんてこ舞いだったことくらいしか覚えていない。

小学校最終学年、それも年が明けてから。夜中に大きい地震があった。部屋に飾っていたガンプラが何体か自殺した。当初は兵庫県淡路地震とか呼ばれていた気がする。朝テレビ家族注視していたが、「箪笥が倒れてきて老人が怪我をした」とか微笑ましい(と言っては不謹慎か)レベルの被害しか聞こえてこなかったので、それほどひどくなかったのだと安心していた。しかし時間が経つに連れて死者数は増え、瓦礫の映像や崩れた高速道路映像を見るにつけ、その深刻さに目を覆うしかなかった。

そして卒業式の頃に、地下鉄サリン事件が起こる。鳥山明の似顔絵みたいな人たちがたくさんいるのを見て、逆になんだか現実味を感じなかった。

でもって中学。またも学区の端だったが、今度はさらに遠くて、多分4kmくらいあったと思う。だけど中学は念願のチャリ通で、ヘルメットが蒸れる以外は快適だった。

クラブ活動上下関係はかなり理不尽で、しかもスポーツが苦手なほうだったから、かなり耐えがたかった。夏暑いし。3年間で褒められたのが「お前はパスうまい」だけっていうのも今思えばどうかと思う。「○○君ってやさしいよねー」くらいの意味だろう。

中3のとき、サカキバラ事件。犯人中年の男だとか医師じゃないか(殺害方法から)とか、南京錠の謎だとか、収拾が付かない方向へ向かっていた。

だけど声明文の「SHOOL KILL」のスペルを見て父は「仮にも医学部へ行った奴がこんなミスはしないだろう。中学生高校生じゃないか」と言ったが、まさか自分と同学年とは思わなかった。同じ年にてるくはのる事件というのもあったんだけど、こちらは警察のヘマで犯人浪人生)に自殺されてしまったので今では誰も知らない。当時は暗号解読とかで話題になったんだけどね。

政治の話は前に新聞スクラップの話とか書いたので割愛する。

高校は学区トップ校へ。加藤君と一緒ですねー。まあでも国際科に落ちてスライド普通科に通ったから屈折してると言えば屈折してるんだけど。

そういえばこの高校最近やたら進学実績伸ばしてて、進路指導のN先生はホクホク顔だと思うんだけど、驚いたことに今年のT大合格者十数名全員が国際科だった。

なんつーか、重点的に資源配分してるのかねー。あからさまなのは嫌なんだけど。

最初のテストで下から少し数えたらたどりつく順位をとって、ショックだった。しかも成績上位者を張り出すとかどんな嫌がらせ

そう言えば毎回1位をとっていたY君は地元の帝大に行ったんだけど、進路指導的には痛恨事だっただろうなあと思う。(だけどそのエピソードに自分の受験校をちゃんと自己決定できるリベラルさが凝縮されてると思う。2番手校以下は結構介入が激しかったらしい)

懲りずに運動部に入るけど、かわいがってくれた先輩がいなくなったら居づらくなって辞めた。友達に誘われて別の部に入るけど、マネージャーが××だったのと手が小さくてボールがつかめないのを気に病んで辞めた。やることないので生徒会長立候補したけど落選した。

しかし帰宅部ではあまりにもアレすぎるので友人たちと会合を何回か開いてそれを同好会に昇格させた。

会長から一人では手が足りないと請われたので予算委員長代理として予算折衝やイベントの運営に当たった。

次の期で会長になったけどやりたいことはあまりできなかった。むしろ黒幕のときのほうが好き放題できた気がする。

豊川主婦殺人とかネオむぎ茶とかみんな同学年だった。「キレる17歳」と連日言われて、ナイフ事件とかが全国各地で多発してた。

大学受験したけど結局一つも受からなかった。仕方がないので代ゼミに通った。

代ゼミではほとんど友達ができず、言葉をしゃべるのも忘れそうになった。おまけに衛星授業で黒板端の文字見えないし。

唯一できた友達がS価高校出身の子。

「やっぱりS価高校の人って全員S価信じてるの?」

「いや、そういうわけじゃないよ」

どんな会話だ。

そういえば代ゼミ私立中高に通っていた小学校時代の友人に再会したが、彼の言うことが支離滅裂で面白かった。

「俺は株でもうけて大金持ちになるんだ」

「じゃあなんで医学部行くんだよ」

「元手を稼ぐためだよ」

とか、

東京屈指のターミナル駅にある国立大学に行くつもりだ」

「そんな大学あったっけ?」

医科歯科大だよ」

「(お前絶対御茶ノ水行ったことないだろ・・・)」

テレビ見てたらビル飛行機が突っ込んで、「世界は核の炎に包まれた」ってなるのかと心配した。

で、再度の受験。なんかセンター試験でいい点が取れてしまってセンター利用でおもしろいくらい合格が出た。

話したこともないのにルックスだけでぼんぼこ告白されるようなそんな感じ。

「中身見なくて大丈夫なんですか?」と皮肉の一つも言いたくなる。

続く・・かも。(でもその世代の雰囲気は伝わるでしょ)

インスピレーション元:

http://anond.hatelabo.jp/20080620191355

2007-06-21

http://anond.hatelabo.jp/20070621090445

逆にスカートははけるけれど明るい色が無理。(ピンクなんてもってのほか!)

箪笥にたまっていく寒色系と黒色の服…。

2007-03-25

地震

揺れが大きいと、テレビが飛んだり箪笥が歩いてきたりする。

2007-03-03

家族記憶

父の母への暴力は凄まじいものだった

殴る蹴る髪を引っ張って引きずり回す

そこらじゅうにある物をぶつける

ぎゃああという悲鳴が響いて、私はたまらず耳を押さえたけれど

そんなことでは到底音は塞げるものではなくって

だから近くにあったコタツに潜りこんだりした

母は包丁を毎日違う場所に隠した

でないと殺されると思ったのだと思う

父が居ないときを見計らってぐるぐると何重にも新聞紙で巻いて

引き出しの中や食器棚の中に隠していた

それでも家中に武器はあるから

だから母の顔や体にはいつも痣があった

それでも母は決して泣いたりしなかった

いつも明るく冗談を言ったり、私の宿題を見てくれたりした

ごはんも毎日美味しかったし

授業参観の日には誰のお母さんよりも早く教室に来て元気に手を振ったりした

それは少し恥ずかしかったけれど、ちょっとだけ誇らしかった記憶がある

父の毎晩の暴力なんて微塵も感じさせない強さがあった

私が大人になって1人暮らしを始めて、その頃には父も母もすっかり年をとっていた

たま実家に帰ると母は

「おとうさんもすっかり最近はおとなしくなったよ」

と笑っていたから私はすっかり信じ込んでしまっていた

母の強さを忘れていた

ある日、実家に帰ると母が怪我をしていた

そして部屋の箪笥がへこんでいた

母は何も言わなかったけれど、私は全てを理解した

それから頻繁に実家に顔を出すようになって、ついに父がまた暴れた

私は大人だから、今日こそ言ってやろうと思ったら

何故だか分からないけど泣けてきた

子供みたいにわんわんないて

それでも心の中で言わなきゃ言わなきゃと思った

「お父さんいい加減にしてよ!」

「いい大人がみっともない!」

「お母さんになんてことするの!」

頭の中で父への罵倒がぐるぐる回って、なんとか言わなければと振り絞って

ついに口から出した言葉に自分でも驚いた

「お父さん、お母さん、仲良くしてよ…」

父を責めるとか、母を守るとか

そういうことじゃなくって

ただみんなが仲良く笑っている所を見たかったんだなぁと始めて気づいて

私はまた泣いた

その時始めて母が泣いた

父はバツの悪そうな顔をして、それからちょっと泣いた

部屋に戻ってまた3人で泣いた

思い思いのことをそれぞれが話して

私の知らなかったことも知って

みんな苦しんでいたことを理解して

父も母も私も、始めて家族意味を考えた

私の家族記憶が少し変化して、少し家の空気が綺麗になった気がした

2007-01-11

こうして世界は救われる――勇者志望のきみへ

村人たちが、ある存在のことを自分たちの世界に危機をもたらすものと認識したとき、それは魔王となる。その価値観の転換が行なわれるまで、村人たちは敵を攻め滅ぼさんと定期的に討伐隊を組織し、その居城に正門から乗り込んでは土壇場の血戦を繰り広げていたが、宿敵に称号を与えた途端、それをしなくなる。彼らは真に村人になるのだ。自分たちの会心の一撃が針の一刺しに過ぎないと決め付け、分を弁えて村人どうしで囁きあうことしかしなくなる。恐怖と憎しみで連帯し耐えるだけになる。それが彼らの役割だった。

そうして勇者を待ち、やがてそれはあらわれた。

彼の出自はわからない。ひょっとしたら村人のうちの誰かだったのかもしれないが、それを確定することはできないだろう。村人に顔はなかった。そもそも勘繰ることに意味はなかった。彼が勇者であること、それのみが意味を持っていた。天空より遣わされし代理人がいなければ完璧な構図にはなり得なかった。

勇者は痛々しい男だった。粗暴で、道理を知らず、倫理などなく、論理などなかった。しかし村人たちにはどうでもいいことだった。勝手に住居に踏み込まれて箪笥を荒らされようと、村娘に乱暴を働こうと、魔王に一太刀を浴びせれば歓声をあげた。乱暴を働かれた村娘もだ。勇者は単純に秩序や正義を象徴していなかった。村人の正義だった。村人がつくりあげた魔王に対抗しうる唯一の暴力装置だった。このさき、魔王が死んだとき、勇者はあらたな魔王に認定される。それが古より続く村のしきたりだった。

だが、これは世界が分断されていた時代の話だった。今、それぞれの世界はつながりを持ち、容易に旅をすることが可能になった。そのおかげで、この世はローカル魔王ローカル勇者で溢れかえっているという事実を知ることができるようになった。このことに衝撃を受けたのが一部の魔王と一部の勇者だった。同じ行ないをしていても勇者と呼ばれることもあれば魔王と呼ばれることもあったのだ。相対化された世界に彼らは戸惑い、混乱し、いったん争いをやめた。やがて彼らは合流し、声明を出した。

「ぼくらの定義をきちんときめてください。それまで、ぼくらはなにもしません」

村人たちの反応はシンプルかつ、鮮やかだった。村の枠を越えて連帯もせず、あくまで村人のまま彼らはたからかに宣言した。

「定めることなどなにもない。おまえらは魔王だ」

彼らはどこまでいっても村人だった。村人骨髄だ。以後、勇者魔王連合は、いわゆる全魔連と呼称されるようになり、世界はエターナルウォー(永遠戦争。必ず死ぬ)へと突入するのだった。

戦争初期は全魔連が優位に立っていたが、圧倒的な物量で押し寄せてくる村人の軍勢に、次第に追い詰められていった。しかし村人軍も決定打に欠き、戦況は膠着した。この状況が十四年つづき、最終的に白旗を挙げたのは全魔連だった。

瀬戸際、がけっぷちで全魔連は自分たちの過ちにようやく気がついたのだ。村人に歯向かってはいけないということに。彼らは無敵だった。構想は彼らの中にある。村人と、それ以外という図式になった時点で未来は決定していた。彼らは、その脆弱さゆえに勇者と魔王の君臨を望んでいたのではなく、困難を乗り越える自分たちの強さを演出するために超越者という役割を配置したのだ。世界は村人の手中にあった。最初から。

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