「表現の自由戦士」と揶揄されるような人々によくみられるのが、「そのような表現はよくない」と批判をしただけで、「表現への弾圧だ!自由の侵害だ!」と騒ぎ立てることです。表現に対し批判をすることも表現の自由のはずなのですが、批判すること自体を攻撃するのです。打たれ弱いにも程がある。
一部の「オタク」、表現の自由戦士と揶揄されるような人々の求めているものは、表現の自由ではなく「表現の無責任」なんじゃないかと私は思うのです。それは、自分の領分と思い込んだ表現を批判されたくない、というものです。それは「ありのままの自分」を受け入れてほしいという欲求なのです。
「表現の無責任」というのは、コンテンツ化して表現物と一体化した自己を、無批判に受け入れてほしいという、たいへん虫のいい、傍迷惑な考えといえます。当然、社会的責任などは埒外となります。
「ツイフェミ」と揶揄されるような人々によくみられるのが、「そのような表現は撤回しろ」と批判をして咎められると、「配慮を求めただけだ」と誤魔化すことです。
夜半に集う精神を病んだおばさんの顔を思い浮かべた