カタカナ語嫌いの言うことも一理あるけど度を越すと鬱陶しいわ。
既にそのカタカナ語が使われている環境に身を置いていて音と場面で自然に意味を体得した言葉ってものがあるわけだ。
そういう言葉についても目くじら立てて「日本語に直せ」と言われても無茶ぶりでしかないわな。
サステナブルはまだ持続可能なと言って欲しいところだけどカタルシスを日本語に直せって言われても別に元の日本語知っててわざとカタカナ語で言ってるわけじゃなくて上のように覚えたパターンの言葉だからどうにもならん。
カタカナ語だとしても今使ってるその言葉が今この瞬間の思考感情にもっとも対応した言葉だろうとして咄嗟に出て来たものなのだから。
無理に直してもそれは自分が思っていた言葉と対応しているかということについて責任が持てなくなるだけだ。
Permalink | 記事への反応(0) | 17:31
ツイートシェア