2019-03-10

ふと気付いたんだけど、「天才」って実は恣意的な偶然の賜物だと思う

天才って呼ばれる人、たとえば「料理天才」が居るとして、その人が飛び切り美味い!という料理を作れるから天才」と称されるとする。

でも「美味い!」っていうのはひとつ可能性であって、絶対的ものじゃないのよね。

その時代とか、文化とか、人の嗜好に合うかどうかが重要だと思うんだ。

そして「天才」と呼ばれる人は、自然とその「美味しい味」を作り出すから天才」と呼ばれると思うんだけど、

でも「美味しい味」自体絶対的でなく偶然的なものから、その天才が「美味しい味」とされる味を作り出せるのって、それはもうただの偶然だよね。

自分感性で作る味がたまたま「美味しい」と言われるような、その時代にそぐうひとつの「味」であっただけで。

すると、天才って言うのは個人で生まれものじゃなくて、結局はその時代とか、周りが呼称して作り出す幻影のような存在じゃないのか?

それだとまるで、凹にぴったりとはまるという理由だけで凸を「天才」といっているようなもので、独我的な天才なんて結局居ないのだと思う。

勝てば官軍負ければ賊軍」みたいに、実は「天才」が正しさを作るんじゃなくて、正しさという恣意的環境が「天才」を定めてるだけな気がする。

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