ほんやくこんにゃくができた世界では、第二言語習得は教養系の趣味として扱われるようになる。通訳に頼らず自力で会話できる人間、筆耕士に頼まなくても流麗な字を書く人間が一目置かれるように、ほんやくこんにゃくなしで意思疎通できる力は、無くても不便ではないが、あればちょっとだけ株が上がる程度のものになる。
さらに時代が進んで、わざマシンができた世界では、習得行為自体が高価な趣味、遊びと見なされるようになる。わざマシンも使わずに習得するなんてすごい!わざマシンを使わずに習得するの楽しい!みたいな。あるいはわざマシンを使わない習得行為は高尚な行為と見なされるようになるだろう。飛行機を使えばすぐ着くのに敢えて徒歩で行く。そのプロセスに価値を置いたり、そのプロセスで手に入る副産物に価値を置いたりするのと似た感覚。
わざマシンのある世界では、何かを習得する過程自体を、ユーチューバーみたいに見世物に出来そう イカダで遠洋航海するのがエンタメになるみたいな感じで