2017-12-31

じいさんの経験した戦争

じいさんは大戦中呉にいた。呉には予科練?という少年兵学校があって、じいさんはそこにいたらしい。呉は軍港があって、大和武蔵が出港していくのを観たそうだ。

じいさんはパイロットではなく、整備工として予科練にいた。戦後水道工として働いていたから、そこで学んだことがじいさんの稼ぎに繋がってたのかもしれない。

整備工だったから、飛行機の作りには詳しかったらしい。アメリカ飛行機が不時着したのを皆で見に行った時(グラマンと言っていた)、じいさんは「あぁこの戦争は負ける。こんなもの作りをしている国に勝てるわけがない。」と悟ったらしい。

わしらは零戦をネジで手作業で作る。グラマンリベットうちじゃ。作れる数が違う。

勝てるわけがない。じいさんが誰ともなしに呟いた事はよく覚えている。

戦争が終わった時じいさんは17歳だった。じいさんは予科練卒業していたが、予科練学校としては認められず、最終学歴は小卒になってひどく苦労したらしい。

じいさんは戦争を憎み、呉には17から先生涯行かなかった。

じいさんは89歳で死んだ。戦争で行けなかったが、本当は大学物理学勉強たかったじいさん。

学歴を生涯恥じ続けたじいさんの人生は、立派なものだったと思う。

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