間違いなく悪いこととは何なのか考えている。悪いことというか間違いなく嫌なことというか、そんなことを考えている。
死は間違いなく悪いことだろうか?たしかに悪いことや嫌なことは、必ずといっていいほど死へとつながっている。
お金がないのが嫌なのは、食べられなくて死んでしまうことが嫌だから。着るものや住む家がなくなって死ぬのが嫌だから。
人に見下されたり嫌われたりするのが嫌なのは、そのことで孤立して食べ物を売ってもらえなくなったり、必要な助けが得られなくなったりして死ぬのが嫌だから。
きっと、全ての悪いこと嫌なことのその「悪い」「嫌だ」の理由は、「間違いなく悪いこと」である死が関係している。
本当にそうだろうか?
間違いなく悪いことは、「惨めに生きること」ではないだろうか。
お金がないのが嫌なのは、惨めに生きるのが嫌なのではないだろうか。
人に見下されたり嫌われたりするのが嫌なのは、孤立するのが嫌なのは、惨めに生きるのが嫌なのではないだろうか。
惨めに生きるくらいなら死を選ぶというのなら、死よりも間違いなく悪いこと嫌なことは「惨めに生きること」なのではないだろうか。
問題は「惨めに生きている」とは、誰が判断するかだ。そして、誰が判断したときに間違いなく悪いことになるかだ。
「あの人は惨めだ」と後ろ指を指す人がいる。「惨めだ」と言われた人は、自分は惨めなのだと落ち込み嫌な気持ちになる。「自分は惨めなのだ。惨めに生きるくらいならば死んだほうがましだ」と考えるかもしれない。
かと思えば、人から「惨めだ」と言われても、気にしない人もいるだろう。「自分は自分のことを惨めだと思わないのだけど、人から見たら惨めに見えるらしい。ま、いいけどね」と。
さらに、人から何を言われたわけでもなく、人から見た自分について考えてしまう人もいる。「きっと人から見たら自分は惨めなんだ。こんな惨めに生きるくらいならば死んだほうがましだ」と。
さらにさらに、こんな人もいるかもしれない。「自分は自分のことを惨めだと思う。人から見たら惨めには見えないかもしれない。けれど、自分が自分のことは一番よくわかる。自分は惨めだ。こんな惨めに生きるくらいなら死んだほうがましだ」と。
誰にどう思われようとも、自分で自分のことを「惨めに生きている」と思ってしまうのが一番「間違いなく悪いこと」に近いように思う。
では、間違いなく悪いことではなく、間違いなく良いこととは何なのだろうか?
君の答えは文学や哲学の世界にあるよ。 地獄への道は善意で舗装されているのよ。 いらっしゃい正さがない世界へ。相対化の極北へ。