2014-09-04

破門同然になるに至ったことについて

もともと宗教に熱心なわけじゃなかった。ただ親が信心深い性格で、その影響を受けていたに過ぎない。

はじめの疑問は「神は全てを創りたもうた」存在で「全てを見通されている」のに、人間を試したり人間のすることに一々憤ったりするのは何故なのかな、ということだった。

コンピュータシステム運用は、はじめのうちこそ人力で色々と頑張るけれど、次第に洗練されて自動で全てが上手くいくようになる(たまに妙なエラーが起きて対応するのは例外として)。

それなら完全者である神は、はじめから完璧システム=一切の神の介入無くして神の意のままに働く世界を創るはずで、この世界はそのようでなければならない。

神がヘボプログラマーで、やっつけで世界というプログラムを創ったものの障害が噴出し、一々障害に対してやっつけパッチ修正しているとでも言うのだろうか?それこそ冒涜だろう。

で、この世界に神の介入がないとすると、我々は神そのものを感じることは出来ないし、神の介入を謳うものは嘘または妄想ということになる(もちろん、そのような妄想をするということも含めて神の計画のうちだろう)

ならば我々はどこに神を見出すべきかというと、世界のものだと思う。

神そのものは感じられずとも、神の偉大さは、人の知る事の出来る唯一の神の創造であるこの世界から見て取ることが出来る。

神は完全者であるから、この世界必然的に完全なる世界ということになる。少なくとも「世界」という枠組みにおいては。そして完全であるということは同様に完全である神に等しいことを意味する。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん