2013-05-22

一応今の日本では、車椅子程度の障害なら「普通に社会参加できることになっている。

できることになっている、というのが建前だったら、建前を通すために全社会が協力すべき。

それが社会に共有される認識になるべき。

差別というのは、まさにその人が「そのようである」ことを理由にして負の方向に区別されること。

ならば、今回の件は差別にあたる。

車椅子であろうが、近眼であろうが、難聴であろうが同様。

車椅子では利用できない店舗があること自体が差別である、ということになる。

もちろん、この言い方は現実的ではない。

そもそも、ある人が「そのようである」ことを理由に区別される、というのは

人間にとって当たり前のことであり、差別というのは人間の本性の一部でもある。

よって、それを解消しようと思えば不自然なことをしなければならない。

人間平等ではない、という認識にもとづいて、あえて平等に近づこうとすること、

それが差別解消への道だ。

社会の建前が「車椅子の人でも社会参加できる」になっている以上、

車椅子の人は「完全に」常人と同じように行動できなければならず、

それを阻害するものがあるとすれば、それはすべて差別である

どんなに不自然で、理不尽で、困難に思えようとも、原理的にはそうなる。

はいえ、今回の騒動の本質は、障害者への差別というよりも、

声の大きい人問題であるような気がしてならない。

今回の件を特殊ならしめている最大の要因は、当事者のうちの一人が

著名人であったことだからだ。

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