2011-10-05

期待債権

「期待」とは身勝手ものだ。どれほどの結果であっても「期待通り」とその期待を抱いた人の想定の範疇丸められてしまい、むしろ、その期待を行ったほうが先見の明があったとして、結果を出した人より評価される。

そのうえ期待が満たされなかった場合には「期待を裏切られた」と被害者面ができ、後の先をとれる。どれほど勝手な期待であっても、それを裏切られた人は「被害者」と自らを認識し、次に「加害者」へと変貌する。

自己保身のための、なんの危険も冒さない「期待」が大きらいだ。期待をするほうは楽なのに、結果が出た場合に同じ位置に立てる。立っているような錯覚を得られる。錯覚なのにさも実際にその位置にいるように振舞うアホが大きらいだ。

「期待を裏切った」といい、なんの損もしていないのに、その「損の錯覚」を取り返すために加害者に変貌するあほはもっときらいだ。その錯覚を埋めるために実際の利益を引き出そうとする浅ましさが大きらいだ。

期待なんてしたくもない。どいつもこいつも他人に期待しすぎだ。上司に期待しすぎだ。政府に期待しすぎだ。東京電力に期待しすぎだ。どいつもこいつも自己保身しか考えていない。そのために身勝手な期待を捻出、捏造し、なんとか自らを被害者に返還しようとする。そして容赦ない徴税人になって、期待を裏切ったやつから「期待」に相応する利益を引き出そうとする。

他人に期待するな。誰もお前の期待にこたえようなんて考えてもいない。期待はされるな、とはいえない。勝手にされるからだ。とめることはできない。期待を悪用する輩は尽きない。

  • むしろ、その期待を行ったほうが先見の明があったとして、結果を出した人より評価される。 ないない 自ら言及してらっしゃる通り、そんなもん錯覚にすぎない

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